ひと月後、王都(2)
城下町は騒がしい。
通りには絶えず馬車が行き交い、軒には店みせが立ち並ぶ。道行く人々を呼び止める店の声が、真昼の空に響き渡っていた。
「……考えてみれば、アロイス様って魔法でお姿が変えられるのよね」
そんな人々に紛れ、カミラはアロイスを見て口を曲げる。すっかり失念していたことへの気恥ずかしさが、彼女の顔に滲んでいた。
「馬鹿ね、それじゃ私が面白くないでしょ」
カミラのわき腹を小突くのは、ディアナだ。気安い様子でカミラの横に並び、同じくアロイスを見やる。
「それに、バレるかバレないかっていうのが楽しいのよ」
「あなたって本当に不良だわ」
呆れたカミラと、楽しげなディアナ。二人に視線を向けられて、アロイスは落ち着かなかった。
――どうしてこんなことになっているのだろう。
アロイスの目に映るのは、一見ただの平民の娘たちだ。貴族らしい華美なドレスも、髪や首元を飾る装飾も全部脱ぎ捨て、今は質素なドレスに着替えている。髪の結び方も簡素にし、敢えて地味に見えるように、化粧をし直した。立ち振る舞いには元のカミラが見え隠れするが、よく見なければ貴族だとは気がつかないだろう。
なにより、カミラの表情が明るい。巷で悪役だ、悪女だと言われたきつい印象を、今の彼女からは受けなかった。
そして、二人から一歩後ろにいるアロイスも、いつものアロイスではなかった。
目の粗いシャツに、着古したズボン。動きやすくて固い革靴。目深にかぶった帽子の中に、特徴的な銀髪を隠している。
もとより飾り気のない服装を好んでいたが、ここまで質素な服を着たのははじめてだった。着慣れない感触に、どうしても動作がぎくしゃくしてしまう。
その上、この姿のままカミラたちに外へ連れ出されてしまったのだ。いつ周囲に見とがめられるかとひやひやしていたが、意外にも誰もなにも言ってこない。そうこうしているうちに、王都の中心街まで来てしまった。
カミラは物怖じせず、軒先の店を冷やかしている。ディアナも慣れた様子だ。店の人々も、カミラを普通の客のように扱っている。今この場で、困惑しているのはアロイスだけだった。
「…………カミラさん。王都にいたころは、いつもこんなことをしていたんですか?」
アロイスがそっと尋ねると、カミラは不敵に口の端を持ち上げた。
「意外にバレないでしょう?」
「人に知られたら大変なことですよ。護衛もなしに、こんな無防備に……」
「わからないものですよ。だって誰も、貴族がこんな格好で歩いてるなんて思わないですもの――――あっ、あった! 小麦粉!」
「小麦粉?」
問い返すアロイスを置いて、カミラは小走りに先に進んでいく。食料品を扱う店の前で立ち止ると、小麦粉の入った袋をしばらく見つめてから、手ごろな大きさのものを一つ手に取った。金を払って買い取ると、問答無用でアロイスに放り投げる。反射的にアロイスが受け取るのを確認してから、彼女はまたいたずらっぽく笑った。
「他に買うものがあるので、ちょっと持っていてください。――ディアナ、卵ってどこだっけ?」
「奥の方でしょ。……あんた、またなんか作るのね。ま、みんな喜ぶからいいけど」
アロイスは小麦粉を手にしたまま、並んで歩いて行くカミラとディアナの後姿を見送った。状況に、未だ理解が追い付かない。
気分転換に、町へ出るのはわかる。王宮とは違い、風の良く通る町は解放感がある。無言で城を抜け出し、変装していると言う事実さえなければ、きっとのびのびできただろう。
それに、小麦粉。手の中の重みに、アロイスは首を傾げる。
どうしてカミラは、アロイスを連れ出したのだろう?
「――――――あいたっ」
不意に、高い声が聞こえた。同時に、背中に柔らかい衝撃がある。ぼんやり立ち尽くしていたアロイスは、思わず手にした小麦粉を取り落としてしまった。
驚いて振り返れば、地面に尻もちをついている少女がいる。ごく一般的な町娘といった風情だが、アロイスは彼女の姿にかすかに眉を寄せた。
彼女の首に、魔道具が下げられている。両手に抱えるほどの大きさのそれは、ここ数年で爆発的に流行り出した、カメラと呼ばれるものだ。立方体の箱型で、レンズに映し出したものを紙に焼き付ける道具。高級品でなかなか庶民の手には入らないため、所持している人間の種類は限られている。裕福な人間か、よほどの道楽者か――――新聞記者だ。
「すみません、ちょっと急いでいて」
彼女は素早く立ち上がると、アロイスを見上げて照れくさそうに笑った。そのすぐ背後から、少女に向けた荒々しい声がかかる。
「おい! もたもたすんな! 噂のユリアン様が町へおいでだってお話だ! 他の奴らに出し抜かれる前に見つけ出せ!」
「はいはい! わかってるよ!」
ばたばたと大通りを走る男たちに向けて、少女も同じ調子で声を返す。それから、身軽な動きでアロイスの前に転がり出ると、落ちた小麦粉を拾い上げた。
「――ってことで、ごめんね! はいこれ」
アロイスの手に小麦粉を押し付けると、彼女は手を振って去って行った。アロイスは手の中に戻ってきた小袋を見つめ、帽子を目深にかぶりなおした。
――意外に、バレないものなのか。
捜している人間が目の前にいたのに。無意識に頬が緩みかけ、アロイスは慌てて引き締める。楽しいと言ったディアナの気持ちがわかってしまった気がした。
――いや、良くないことだ。必要に迫られたわけでもないのに、ましてや楽しいなど。
それよりも、すでに町にいることが知れ渡っている方が問題だ。記者たちに捕まったら、面倒なことになるのは間違いない。それに、万が一にも謀反の残党が町に残っていたら、面倒どころでは済まなくなる。
やはり、カミラには城に戻るように言うべきだ。彼女がアロイスを連れ出した理由もあるのだろうが、護衛の一人もない状態で、町を歩かせたくはない。
――私の魔力があれば、身を護るくらいはできるかもしれないが…………。
「いたいた! すみません、お待たせして」
カミラの声が、考えに沈むアロイスを我に返らせた。
はっと顔を上げれば、荷物を抱えたカミラが、ディアナと共に向かってくるのが見える。彼女の手にあるのは、卵だけではない。バターや木の実や、果実のようなものまである。
「カミラさん。せっかく連れ出していただいて申し訳ないのですが――――」
「じゃあ、行きましょう、アロイス様」
言いかけた言葉を遮り、彼女は問答無用でアロイスの手を取った。荷物はディアナに押し付けて、アロイスを引っ張りぐんぐんと進んでいく。アロイスには、その手を振り払うこともできず、引っ張られるがままについて行くしかなかった。
「カミラさん」
咎めるように言えば、彼女は首だけ曲げて、アロイスを見やる。自信に満ちたその顔は、アロイスに次の言葉を言わせない。
「いいから。お時間は取らせないわ。今日は、お城じゃ駄目な日なのよ」
彼女はきっと、アロイスの言いたいことを知っているのだ。
知っていてなお、アロイスをどこかへ連れ出そうとしている。
「……どこに連れて行くおつもりですか?」
アロイスの問いに、カミラはにやりと笑った。
「私の秘密の場所」
「秘密の場所?」
カミラは頷き、口元をにやりと歪めた。不敵で、そのくせ底抜けに明るくて――どことなく子供っぽい笑みだ。
彼女は楽しそうに目を細めると、アロイスを引く手に力を込めた。
「行けばわかるわ!」
青い空に似合いの、鮮やかな彼女の背を、アロイスに止めることができるはずもない。
〇
大通りから少し離れた教会の隣に、その建物はあった。
石造りの二階建てで、広い庭を持つその建物は、一見すると大きな家のようである。
その家に入った途端、カミラは子供たちにまとわりつかれるはめになった。
「あっ! 出たカミラ!」
「なんだよ! 生きてたのかよ!」
「やべーな! お前有名人じゃん!」
「相変わらずの減らず口ね! いいからどいて、先生をお呼びして!」
背後で、アロイスが戸惑っているのが見える。器用なディアナは、子供たちを避け、一人でさっさと奥に行ってしまった。おそらく、買ったばかりの荷物を置きに行ったのだ。
おかげで、子供を押し付けられない。声を聞きつけて、奥からさらに子供たちが寄ってくる。
「ここは…………」
アロイスが立ち尽くしたまま、建物の中を見回している。
目に映るのは、燭台の光に照らされた、白い壁と長い廊下。壁には無数の扉があり、今は大半の扉が開かれている。開いた扉から覗くのは、ベッドの並ぶ子供部屋だ。
木製の小さな棚に、転がる椅子。活けられた花と、開きっぱなしの本。そして、扉から顔をのぞかせる子供たち。
「孤児院、ですか?」
「ええ」
アロイスの言葉に、カミラは頷きを返す。
「前にお話したことがありますね。私が、こっそり厨房を借りていたところです」
王都では、料理は人に言えない趣味だ。だから、カミラは慈善活動と言い訳をして、ずっとこの孤児院に通っていた。
料理だけではない。苦しいとき、辛いとき、我慢できないとき。カミラは何度もこの孤児院に通った。料理を作り、子供と遊び、たくさん話を聞いてもらった。
王都にいたカミラを、守り続けてくれた場所だ。
「さあ、いつも通り厨房を借りるわよ! 案内しなさい、チビたち!」