1-11
――――腹立つ!
大股で石畳を踏みながら、カミラは闇雲に歩いていた。
――腹立つ! 腹立つ! 腹立つ!!
頭の奥が熱くて、それでいてひどく冷え切っている。目の前がちかちかするほどの怒りが、カミラの体をじっとさせてはいなかった。
反射的に屋敷を飛び出してから、しばらく。空の色が赤から藍に変わり始めても、カミラは足を進めるのをやめなかった。
西日はいつの間にか沈み、深い影の落ちた町に、ぽつぽつと窓明かりが灯り出す。昼間は閉じていた店が開き、軒先のあちらこちらに赤ら顔の採掘夫たちが見える。刺激的な服の女が店の前に立ち、道を歩く採掘夫や商人たちに声をかけていた。
夜の顔になったグレンツェを、町中に張り巡らされた街灯が煌々と照らす。鮮やかな白い光は、火と油ではなく、魔石を燃料とした魔法ゆえ。売り物にならない屑魔石を使った、採掘町だからこそできる輝きだ。
魔石の明かりが先か、夜の町が先か。明かりの消えない町は、昼とは違う退廃した活気があった。
そんな中で、カミラのような女は異質だった。お高く留まったドレスを着て、髪はきっちりと結い上げて、ネックレスも髪飾りも、いかにも値が張るものだとわかる。
見るからに貴族然とした彼女を、町の人々は時折ぎょっとしたように目を向けた。しかし、彼女の剣幕を見るとすぐに顔を背ける。
――あんな男に! どうして私が同情なんて!
腹の中に渦巻く感情の赴くまま、どれほど歩いたかわからない。自分がいま、町のどこを歩いているのかもわからない。同じ場所をぐるぐる歩いた気もするし、ずいぶんと遠くまで来たような気もする。もちろん、帰り道もわからない。
――見返してやるわ!
でも、どうやって?
アロイスを痩せさせることすらも、今となっては無理なのに。
――それでも!
カミラは心の声に怒鳴り返す。負けてたまるか。傷ついてたまるもんか。
心の中で祈るように叫びながら、カミラは石畳を踏みつけた。
「いたっ!」
道半ばで、カミラは不本意に足を止めた。
胸よりも少し下あたりに、柔らかい衝撃を受けたせいだ。言葉とは裏腹に痛くはなかったが、くすぶった怒りを止められたようで気分が悪かった。
「誰よ、こんなところで突っ立って!」
カミラの足を止めた正体は、すぐにわかった。目の前に、戸惑った様子の少年がいる。まだ、十数歳といったところだろうか。着古したシャツに、継ぎのあてられたズボン。さほど良い生活をしていないと見て取れる。
「なによあんた、子供じゃない! こんな時間に出歩いていいと思ってるの!?」
「……なんだよ、そっちからぶつかってきておいて!」
カミラの怒声に、少年は怯えたように顔をこわばらせた。が、その表情は一瞬だった。すぐに生意気な顔つきで、カミラに言い返す。
「子供で悪いかよ! 俺だって、帰れるもんなら帰りてーよ!」
「はあ!? あんた迷子なの!?」
「ちげーよ!」
少年はむきになってカミラに怒鳴り返す。魔法の光の下。顔を真っ赤にした少年の表情は、どこか疲れているように見えた。
「自分の家くらいわかるに決まってるだろ! ただ、帰れないだけで……!」
「やっぱ迷子じゃないの!」
「ちげーって言ってるだろ!!」
少年は腹の底から叫ぶと、その反動のように深いため息を吐く。それから、一度迷うようにうつむいてから、渋い顔でカミラを見つめなおす。
「……まあいいや、お前で。なあ、ちょっと助けてくれよ」
「は? お金なんて持ってないわよ」
「俺をなんだと思ってんだよ!」
浮浪児だと思った。金をせびられるものだと思っていた。だが、今のカミラは文無しだ。髪飾りやネックレスを売れば結構な額になるだろうが、もちろんそんなものを譲ってやる気はない。
「むっかつくなお前! いいから助けろって言ってんの! 本当は、アロイス様のところに行くつもりだったのに……!!」
「は」
思いがけない単語に、カミラは「は」と開いた口のまま固まった。
「アロイス様のところに行く途中で、ばーちゃんが倒れたんだ。助けてほしいのに、みんな信じてくれねーし、アロイス様に会いに行っても、俺一人じゃ追い出されるし……」
「倒れたって……大変なことじゃない!」
行く途中、ということは、どこが道端で倒れているのだろうか。
驚いて周囲を見回すが、それらしき人影はどこにもない。代わりに、カミラと少年のやり取りを眺める人間が数人、『気の毒に』という顔で立っている。
――なにその表情……?
違和感のあるその表情に、カミラは困惑した。首をかしげていると、親切な誰かがカミラに声をかける。
「おーい、そいつに近付かないほうがいいぜ、貴族のお嬢ちゃん」
「……どういうこと?」
「そいつは有名な悪ガキだよ。嘘で人の気を引いて、油断したところで金を掏るんだ。町の人間はみんな知ってるぜ」
誰かが言うと、周りがざわめき出す。「母親が急病だと、俺は三回は聞いた」「妹が死にかけてるとも言われたぜ。家族なんていないくせに」「狭い路地に連れて行くのが手口なんだ。その方が逃げやすいからな」
人々の声を聞きながら、カミラはちらりと少年に目を向ける。カミラの視線からは、うつむいた少年の頭と、握りしめた手だけが見えた。
「さっきから手当たり次第に声をかけてるが、あんた以外は誰も答えてないぜ。この町に住む人間は、みんなあいつには近づかないんだ」
笑いながら、周囲の人間の一人が言った。なるほど、道理で。カミラみたいな異質な人間に声をかけたのは、他に誰も引っかからなかったからなのだろう。
「あんたスリなの? 最低じゃない」
「――――今は違う!」
思わずぽつりとつぶやいたカミラに、少年は悔しさをにじませた声で叫んだ。
「ばーちゃんに拾われてからは、一度も掏ってない! 本当なんだよ……! 家まで運んでくれるだけでいいんだ……助けてくれよ!!」
真っ赤になった少年の目の端が、微かに滲んでいる。だが、それを飲み込むように、少年は唇を噛んだ。
その表情が、なぜだろう。少し自分と重なってしまったのかもしれない。
「…………まあ、いいわ。わかったわ」
少しの間少年を見つめた後、カミラは軽く首を振った。自分で助けろと言っておきながら、少年の方がカミラの態度に目を丸くする。
「おいおい、本気か? そいつはとんでもない嘘つきだぞ」
カミラたちの様子を見ていた誰かが、そんな野次を飛ばす。しかしカミラはつんと澄まして、声の方向に目すら向けない。
「私はまだ、この子に嘘をつかれていないもの。この子が嘘つきなのか、まわりが嘘つきなのかわからないわ。――だから、とりあえず信じてあげる。おばあさんはどこにいるの?」
「……本当に? 本当に信じてくれるのか!?」
「とりあえずってだけよ。これであんたの方が嘘つきだったら、ただじゃおかないわよ」
少年はこくこくと頷く。「かわいそうに」と笑う声が聞こえるが、カミラはそのまま聞き流した。
「ばーちゃん、最近病気がちで……だから、家に戻れば薬があるんだ! 路地裏の方で休ませてるから、こっち! 案内する!!」
少年はカミラの手を握りしめ、急かすように引っ張った。カミラは少年にされるがまま、少年が向かう方向へぱたぱたと走り出す。
うかつな行動だ、と思わないわけではない。いくらカミラでも、普段ならもう少しためらっていたかもしれない。
だけど、カミラは気がついていた。
少年の髪から、ふわりとほのかなビスケットの香りがする。