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6-14

「わたしのお姉さまよ! わたしのお姉さまの手よ! 勝手に取らないでよ!」

 転げ落ちるように、テレーゼはカミラの前へ躍り出る。

「そんな男の手なんて取らないで! なによ、正体は醜い沼地のヒキガエルじゃない! そんな男の、どこがいいのよ!!」

 テレーゼに向けられる人々の目は冷たい。

 ユリアン王子とリーゼロッテの正体が暴かれたことで、王都追放劇でのカミラの立場もひっくり返る。今のカミラは、悪人に嵌められた悲劇の少女だ。

 対するテレーゼは、カミラのありもしない罪を吹聴して回っていたことを知られている。カミラを孤立させ、陥れる手腕にかけては、テレーゼはリーゼロッテをもしのいでいた。

 テレーゼが、カミラ追放後にリーゼロッテと親しくしていたことも、その立場を危うくする。テレーゼはリーゼロッテの共犯者。カミラの冤罪の立役者。

 彼女は今、カミラを陥れた悪女の一人だ。

「わたしを選んで」

 だけど、テレーゼにとってはそんなことはどうでもいい。

 自分が救うはずだったカミラの窮地に駆けつけ、かすめ取っていこうという男がいる。それがなによりの、テレーゼにとっての危機だった。

「沼地になんか行かないで。そんな穢れた地、お姉さまだって嫌がっていたくせに!」

「テレーゼ」

 咎めるようなカミラの言葉を、テレーゼは聞かない。駄々をこねる子供のように、くしゃりと顔をゆがめて首を振る。

「行かないでお姉さま」

 それは、生まれて初めて見るテレーゼの不安だ。誰の手も取らなかったカミラが、誰かを選んでしまう。嫌われるよりも憎まれるよりも確かな、カミラの喪失に怯えている。

 カミラを奪う憎い男が隣にいるのに、テレーゼは戸惑うアロイスを見もしない。彼女の目に映るのは、ただカミラ一人だった。

「わたしの手を取って。わたしがお姉さまを救うの。どんなときだって!」

 テレーゼはカミラに手を差し出す。アロイスに張り合うように示された手は、小さくて頼りない。誰も守れない手だ。

「だって家族だもの! どんなときも寄り添うわ! 苦しいとき、悲しいとき、辛いとき。同じ苦しみを味わいたいの。同じ悲しみを受けたいの! 同じ痛みを分かち合いたいの!」

 家族。

 悲鳴じみたテレーゼの声に、ノイマン夫妻が顔を上げる。そんなことを、夢中のテレーゼは気が付かない。

 歪んだ顔で、目を潤ませて、頬を赤らめ、幼い日のように泣いている。誰かを求め、誰も取らなかった手を差し出しながら。

「捨てないで、お姉さま。わたしを捨てないで。謝らないで。離さないで。わたしだったら、どんなときでも離さないのに!!」


 ――捨てないで。


 謝らないで。遠ざけないで。家族なのに。

 同じ重荷を持ちたいの。同じ苦労を分け合いたいの。貧乏でもよかったの。苦しくたって平気だったの。

 一緒に苦労して、一緒に乗り越えて、一緒に日々を喜びたかったの。家族なんだもの。

 謝らないで、お父さま。悲しまないで、お母さま。わたしを捨てないで、本当のお父さまとお母さま。

 どんな苦労も平気なの。貧しさなんてどうでもいいの。一緒にいられるのならば、わたしはなんでも我慢できたのに。

 誰も本当の家族にはなれなかった。わたしは捨てられた子。

 生まれてすぐに、家族に捨てられたいらない子。


 幼い日からずっと、テレーゼは泣き続けていた。


「捨てないで、捨てないで、捨てないで、もう捨てないで、わたしを置いて行かないで!」

 すがりつくテレーゼを、カミラは見下ろす。

 彼女を哀れに思わないわけではない。

 気持ちを理解できないわけではない。カミラもずっと、家族を求めていた。

 だけど、カミラはテレーゼには同情しない。彼女はずっと、

「お姉さま」

 泣きはらした目で、テレーゼは手を突き出す。子供のわがままだ。カミラは少しの間その手を見つめ、息を吸う。

 それから、一瞬のためらいのあと――差し出された彼女の手のひらを振り払った。

「その手は、私を救わないわ」

 冷たいくらいの確たる声。泣きじゃくる『子供』に向けるには、少し残酷すぎるだろう。

 だけどテレーゼは子供ではない。かわいそうだと慰めて、仕方ないと許すには、彼女はあまりに多くのことを成しすぎた。

「救うなら、あなた自身を救いなさい、テレーゼ!」

「……お姉さま」

 強い拒絶の言葉に、テレーゼは愕然とする。

 すがりつく力も失い、彼女はその場に膝をついた。

 そうして小さくうずくまり、静かに嗚咽を響かせる。

 最後に求めた姉でさえ、彼女の手を取ってはくれなかったのだ。


 テレーゼがうずくまると、また誰かが傍聴席から降りてくる。

 駆け降りてくるのは、二組の男女。ノイマン子爵夫妻と、シュトルム伯爵夫妻だ。

 まっすぐにテレーゼに向かうのは、カミラの伯父であるノイマン子爵夫妻。立ち止らずにカミラの元へやってくるのは、シュトルム伯爵夫妻だった。

「カミラ!」

 カミラの父、パトリックが、テレーゼを拒んだカミラの手を取る。

「お前は……お前は本当に無実だったんだな……!」

 カミラの空いているもう一方の手を取るのは、母のカタリナだった。長いこと、繋いだことのなかった手の感触に、カミラは息を呑む。母の柔らかい手は、ほんの幼いころにしか知らない。あとはずっと、カミラを叱るためだけにあった。

「ごめんなさい、カミラ。信じてあげられなくて……」

 泣き出しそうな二人の後ろで、ノイマン子爵夫妻が同じようにテレーゼの手を取る。

 カミラの代わりに立場を追われたテレーゼ。誰にも顧みられなくなったテレーゼを、二人は見つめている。


「すまない――――いや」

 ノイマン子爵が、口にした言葉を否定する。

「謝罪はするまい。お前も私には謝るな。お前が咎を受けるなら、私も同じ罪を負おう」

「あなたを手放すべきではなかったわ」

 体が弱いくせにテレーゼのために走り、死にそうなほどに青ざめたノイマン夫人。

 彼女は弱々しい手で、しっかりとテレーゼを抱きしめる。

「あなたは、私たちの娘だもの」


 ――ああ。

 ずっと憧れていた。

 カミラが本当に欲しかったもの。


「――――私たちは騙されていた! テレーゼがあんなことをする子だとは思わなかったんだ!」


 だけど、永遠に手に入らないもの。それを思い知らされる。

「お父様」

「テレーゼのせいで、お前は苦しんでいたんだな。ああ、すまない……哀れな子だと、甘やかしすぎたんだ。まさか実の姉に、こんな仕打ちをするなんて……」

 パトリックの声は、すぐ後ろにいるテレーゼの耳にも届くだろう。泣きぬれて、聞こえていないのは幸いかもしれない。そんなこと、彼は考えもしないのだろうけれど。

「あなた一人を悲しませてしまったわ。ごめんなさい、気が付いてあげられなくて」

「お母様」

「ずっと一緒にいた、一人娘なのに。ああ……嘘に踊らされて、私たちが間違っていたんだわ。あなたをずっと見てきたはずなのに」

 はらはらと泣くカタリナを、カミラは見下ろした。カミラとテレーゼ。二人とも、同じ娘だ。自分たちの言葉の向き先を、彼らは考えたことはあるだろうか。

「お父様、お母様」

 カミラは強張った顔で二人に呼びかけた。平気な顔をしようとしているのに、どうしても上手くいかない。腹の中には煮えるような、声にならない感情がある。なのに二人への熱は、奇妙なほどに冷めていた。

 夢から覚める瞬間に、似ているかもしれない。

「私はずっと、違うって言い続けてきたわ」

「そうだろう。事実、お前は無実だった」

 パトリックが頷く。彼はカミラの否定を聞き続けてきた。誰よりも多く、聞いてきたはずだった。

「無実だった――――それを、一度でも信じてくれたことがあった?」

 パトリックは瞬いた。それから少しして、自分が責められているのだと気が付く。

 ――どうして、信じてくれなかったの?

 カミラがそう言おうとしているのだと、理解した。

「……私だって、お前を信じたかった。実の娘だ、信じたいに決まっている! だけど、あまりにお前に不利な証拠が溢れていた。嘘に騙され、それを信じて……私たちが愚かだった」

 相手は国すらも騙そうとした巨悪。翻弄されたパトリックは愚かだったかもしれない。だけど、あまりに強大すぎたのだ。ただ、不幸な出来事に巻き込まれたのだ。

「許してくれ……お前は私たちの、本当の娘。愛しているんだ、わかってくれ……」


 愛している。

 だから許せと。水に流せと。


 カミラには理解できなかった。

 愛ゆえにテレーゼをかわいがり、愛ゆえにカミラに許しを請う。テレーゼを愛する間の、カミラへの愛は。カミラに許しを求めている間の、テレーゼへの愛は、どこにあるのだろう。

 愛がすべてを許す免罪符たりえると、彼らは思っているのだろうか。

 カミラとテレーゼを、二人とも引き裂いておきながら。


「――行きましょう、カミラさん」


 うつむくカミラの背に、低い男の声がかけられる。

 アロイスだ。彼は険しい顔でカミラを見やっている。

「お話はもういいでしょう。こちらも時間がありません」

「アロイス様」

 カミラはアロイスに振り返る。だが、両親はカミラの手を離さない。

 まだ、カミラから望みの言葉を聞いていないのだ。

 許す。その一言を。

「行かないでくれ、カミラ。私たちの娘。私たちの子供は、お前しかいないんだ」

「耳をお貸しになる必要はありません、カミラさん。行きますよ」

「……あんまりですわ、モンテナハト卿! 私たちの大切な娘なのですよ!」

 カタリナが悲鳴を上げる。アロイスが口にしたのは、家族を引き離す酷薄な言葉だ。信じられない、と言いたげに、カタリナが震えた。

「カミラ、あなたは私たちを見捨てないでしょう? 愛娘を二人も失えば、私たちは生きてはいけないわ!」

「お前はシュトルム家の娘。もう二度と苦労はかけるまい。シュトルム家のすべてでお前を幸せにしよう。多少なりとも、モンテナハト家の力にもなれるだろう。だから――――」

「いえ」

 許しを乞うパトリックの言葉を、アロイスは短く遮った。

 アロイスはいつもの、優しい顔ではない。穏やかな表情も浮かべない。冷徹な無表情が、パトリックとカタリナに向けられる。

「必要ありません。カミラさん、私にシュトルム家の力は不要です」

 アロイスが再び手を差し出す。見たことのないアロイスの姿に、カミラは戸惑った。

 温和な彼の口から、ここまで冷たい声が出たことなど、かつて一度もない。いつかカミラと言い争いをしたときさえ、もう少し相手への気遣いがあったはずだ。

「行きましょう。シュトルムの名など、捨ててしまいなさい。あなたはもう、モンテナハト家の人間です」

 カミラはアロイスを見て、両親を見た。

 行かないでくれ、とパトリックが叫ぶ。愛しているのよ、とカタリナが涙する。お前だけなんだ。たった一人の娘なんだ。そう嘆く彼らの背後に、泣き続けるテレーゼがいる。

 顧みられないテレーゼの姿を、彼らは振り返りもしない。テレーゼは、罪人に加担しカミラを陥れた悪女。シュトルムの名を穢す娘。

 そんな娘はいらないのだ。かつてのカミラと、同じように。

「お父様、お母様」

 すがりつく二人の手を、カミラは振り払った。王都へ戻ったとき、テレーゼが言った言葉を思い出す。

 彼女の言うとおり。彼らは何度でも、きっと同じことを繰り返す。悪いなんて、ひとかけらも感じることもなく。

「――――?」

 失われた娘の手に、二人は束の間、呆けた。その手がもう、二度と彼らの元に戻らないことに、きっと二人は気が付いていないだろう。

「捨てる?」

 心当たりは、彼らにはない。二人とも娘を愛していた。カミラもテレーゼも、どちらも生まれてから今まで、愛し続けてきた。

「お前を捨てたことなんてない。なんてひどいことを言うんだ……! 見捨てようとしているのは、お前のほうじゃないか……!」

 パトリックは愕然としていた。カミラの言葉が信じられない。自分たちが、愛する娘を捨てるはずがない。大切に大切に育ててきた。

 なのに、娘たちにはその思いが通じない。親にとって、これほど悲しいことはないだろう。

「どうしてわかってくれないんだ、こんなに愛しているのに!」

 パトリックの嘆きが法廷に響く。哀れなその響きに、同情をする優しい者もいるだろう。親の心の通じぬことに、苦しむ者は彼らだけではない。共感し、気の毒がり、慰めるだろう。

 いずれカミラは、また「ひどい娘」だと言われるようになるかもしれない。テレーゼも同じだ。二人の娘は親を裏切った、ひどい娘。そうなればシュトルム夫妻は、薄情な娘たちに裏切られた、哀れな二人となる。

 そうやってずっと、同情されて生きていくのだ。愛しい二人の娘を、永遠に取り戻せないまま。


 カミラは首を振った。

 好きにすればいいと思う。カミラを薄情者と呼べばいい。親の愛に報いない、悪い娘と呼べばいい。もしかしたら、やはり悪女だったと思われるかもしれない。


 ――――でも、知ったことじゃないわ!


 心の中で叫ぶと、カミラは顔を上げた。

 誰がなんと言っても構わない。自分の選択を後悔はしない。

 カミラの前に差し出されたいくつもの手。取るべき手を、カミラは知っている。


 だからカミラは胸を反らし、いつものようにつんと顎を上げた。

「さようなら、お父様、お母様。お元気で」

 決別の覚悟を込め、それだけを告げると、カミラは二人に背を向けた。



「待って! 今度こそ、あたしも一緒に行くわ!」

 アロイスと共に法廷を去るカミラの背に、ディアナの声が響いた。

 呆然と結末を見守る人々の中、ためらわずに追いかけてくる彼女の足音に、カミラは少し笑った。

 父より母より親しんだ、カミラの姉みたいな人。

 ディアナこそがきっと、カミラにとっての家族だったのだ。

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