6-10
「報告いたします! ファルシュからの戦闘指示を受け、アインストが――――」
息を切らせ、兵が声を上げる。
血相を変え、信じられないと言うように。
「――――アインスト、動きません! すでに動いている一部の兵を除き、そのほとんどが沈黙を保ったままです!」
「なんだと?」
アロイスより先に、クラウスがいぶかしげに問い返した。だが、返答の間もなく次の報告が駆け込んでくる。
「アロイス様! 報告します! 昨日から続いていたアインストの一部とブルーメとの衝突ですが、撃退したそうです!」
「はあ!? あのブルーメが!? どうやって!」
「ど、どうにも優秀な指揮があるようで……」
「指揮……」
クラウスが腕を組む。なにか思い当たる節があるのだろう。呆けた顔で、彼は一人息を呑む。
「アロイス様、た、大変です! 先日から集め始めていた志願兵ですが、予想以上に集まっていて、支給する装備が不足していると報告が!」
かわるがわるの報告に、アロイスは瞬いた。耳に入る言葉を理解するのに、少しの時間が必要だった。
指先が、体が、心の奥が震える。言葉は出ない。代わりに短い呼気が漏れた。
思い浮かぶのは、カミラとともに訪れた町々だった。
〇
まだ不仲だったころ、はじめてカミラを連れて旅をした。
カミラを知った秋のグレンツェ。
あの時アロイスはきっと、生まれて初めて感情的に怒り、恥じた。
〇
「いやだ! 俺も剣を取るんだ!!」
「馬鹿なこと言うんじゃありません!」
孤児院の老婆がロルフの頭を叩く。血気盛んな跳ねっ返りは、すぐに飛び出そうとする。
「あなたが行っても、迷惑をかけるだけでしょう! 兵士の方に食事を提供するのも、立派な仕事です!」
「でもぉ……!」
「でもじゃありません! あなたになにかあったら、アロイス様もカミラ様も悲しむでしょう。心を込めて、食事を作って、送り出す人間も必要なんですよ」
む、とロルフは口を曲げるが、結局は折れて黙々と手を動かす。孤児院の子供たちが作るのは、グレンツェの兵に差し出す食事と、携行用のビスケットだ。
恩のあるアロイスとカミラのため、戦えない彼らは兵たちの食事係に志願した。少しでも力になれるよう、少しでも役に立てるよう。祈りながら食事を作る。
子供たちの作った不格好なビスケットを、兵士たちはいつも、笑いながら受け取ってくれた。
〇
「ねえ聞いた? この戦い、あの悪役女のせいなんだって」
「聞いた聞いた。あの女がゲルダ様を追い出したせいで、貴族家が怒って反乱したんだって」
グレンツェにあるモンテナハト家別邸。侍女たちが密かに囁き合っている。
「アロイス様もあの女のせいで頭がおかしくなったって噂。あのカミラならやりかねないわよ」
「本当だったら私たち、まずいんじゃない? 早めに身の振り決めないと――ねえ、あなたもそう思うでしょ?」
侍女の一人が、背の低い栗毛色の少女に水を向ける。気弱で、臆病で、気が昂るとすぐに泣き出す。いつも誰かに話を合わせてばかりの彼女だが、今は頑として首を振った。
「お……お、思わないわ」
侍女たちは、おや、と少女に目を向けた。
「なに言ってるのよ、あなた。あんなに悪口言ってたくせに。今さらいい子ぶるの?」
「言ったけど……今は言ってないわ」
少女はすでに泣き出しそうだ。潤む目元を拭いながら赤い顔を侍女たちに向ける。
「カミラ様はそんな人じゃないわ。わ、私は信じてるから……!」
涙交じりに言い切る少女に、侍女たちは顔を見合わせた。
いつも泣いて押し黙る彼女らしくもない。彼女の強い意思に、侍女たちは軽率な口をおさえた。
〇
冬に向かう寒い日々。魔石暴発の轟音と瘴気の中、カミラの無事を祈った。
なのに彼女は、アロイスの心配さえも凌駕して、アインストの町を救い、アインストの人々の心を動かした。
カミラの強さに憧れ、嫉妬した。アロイスを変えたアインスト。
〇
アインストは動かない。
もうずいぶんと復興の進む町を眺めながら、マルタはマイヤーハイム家からの指令を握りつぶした。
老いた体は、イルマとフリーダの二人の侍女が支えている。フリーダは最近、ようやく歩けるようになったばかり。彼女のおぼつかない足取りが、冬の災害を思い起こさせた。
アインストは一枚岩ではない。気の早い者たちは、すでに剣を持って飛び出して行ってしまった。訓練された兵である彼らは、モンテナハト家の厄介な敵になるだろう。
だが、アインストの大半はまだここにいる。モーントンの勢力図を決定づける戦力ほとんどが、この町にとどまり沈黙することを選んだ。
アインストはマイヤーハイム家の配下。長く仕えてきた義理がある。
だが、アインストの人間は受けた恩を忘れない。アロイスとカミラ。この町を救った恩人たちに、剣を向けることなどできるはずがなかった。
アインストは沈黙する。切り札は伏せられたまま、表に上がることはない。
それがアインストの、恩への報いだった。
――もっとも、アインストを出て行った人間までは、責任を負うつもりはないが。
アインストは動かない。だが、アインストを捨てた人間は別だ。
町に男たちの姿は少ない。
剣を取った彼らがどこに向かおうが、マルタには知ったことではない。
〇
「――――あんたたち、強いなあ」
窮地を助けられた警備兵が、二人の男に感嘆の声を漏らした。同じ剣を持っているはずなのに、二人の技はずば抜けていた。戦いにも慣れているらしく、判断が早く無駄がない。二人が傍にいるだけで、安心感が桁違いだった。
「やっぱり、アインストの人間は練度が違うな、すげえや」
警備兵は二人の髪色を眺め、改まって頷く。栗毛色の髪は、マイヤーハイム家の血筋の証。本来なら敵に回るはずのアインストの人間だ。
だが、彼らは奇妙なことに、領都の志願兵だった。名前はテオとレオン。わざわざ激戦区に配置を希望する、物好き中の物好きだ。おまけにこの二人の他にも、アインストからの物好きが何人もいるらしい。
「でも、こんなところにいていいのか? アロイス様の味方をしたら、アインストに戻れなくなるんじゃないか?」
警備兵の言葉に、テオとレオンは顔を見合わせる。思い悩むような顔ではない。にやりと笑みを交わすような、不敵な表情だった。
「いいんですよ。アインストにいたらなんもできなかったですし」
「あの人に、力になると言った。ここでならずして、いつ力になれると言うんだ」
ぽつりと語るレオンの背後。敵兵が声を張り上げ突進してくる。おののく警備兵とは裏腹に、戦士たちは鋭く目を細め、剣を握りなおした。
〇
人々の笑い声が響く、花びらの舞うブルーメ。
楽しかった。美しかった。アロイスが見たのと同じ世界を、ブルーメの人々も見たのだろう。
雪解けめいた騒動は、モーントンの行く先を照らす光だった。
〇
伯父の教えも、案外役に立つ。
撃退の報告を聞きながら、フランツは皮肉気に笑った。
アインストに傾倒し、武力に注力した伯父の元、兵のなんたるか、戦いのなんたるかをフランツは教え込まれてきた。こればっかりは、クラウスよりもフランツに分があるだろう。
伯父の残した傭兵たち。今度こそ守ると息巻く自警団。これなら、戦いに慣れない志願兵を前に押し出すこともない。
最小の被害でアインストを押し返したと知れば、クラウスはどう思うだろうか。目を丸くするクラウスの姿を想像し、フランツは不敵に笑む。
――どうだ兄貴。俺にだって一つくらい、あんたに勝ることはあるんだ。
〇
卑怯者?
褒め言葉だ。
小者だって?
いくらでも言え。
「信念なんて必要ない! 俺たちは傭兵だ! 誰がなにを言ったって、言われたとおりに戦うだけだ!」
はじめはブルーメでルーカスに雇われ、金の力でアロイスに鞍替え。仕事がなくなればブルーメで管を巻いていた。いつだったか、花屋でアロイスと対峙した男が、今は声を上げて戦場に乗り出す。
「俺たちは卑怯な小心者だ! だけど勝ち馬を見る目はある! 戦え! 今のうちに公爵家に、うんと恩を売っておけ! 自警団のアホどもには先を越されるなよ!!」
わはははは、と笑えば、その自警団のアホに頭を叩かれる。共に酒を酌み交わしたばかり。
犬猿の仲の二つの組織は、入り混じって同じ敵に向かっている。
〇
「だからさあ! 楽隊ってあるだろ? そういうので志願できないかな」
なにかしたいけど、戦えない。剣など握ったこともないヴィクトルが、仲間たちに訴えていた。
「戦場に出たって邪魔になるだけだし……いや、怖いって言うんじゃなくてさ!」
「――この、臆病者」
そんなヴィクトルに、澄ました声を向けるのは、フェアラートだった。
「怖いならじっとしていなさい。結婚を控えた腑抜けに出る幕なんてないわ」
「し、辛辣……」
肩をすくめるヴィクトルを一瞥して、フェアラートは仲間たちを見回した。バイオリンのヴィクトル。オーボエのオットー。フルートのフィーネに、ドラムのディータ。それから、ヴィクトルの婚約者であるミア。
「あんたたち全員、手を怪我したら楽器が持てないでしょう。その点私は、口があれば歌えるもの。怖ければ引っ込んでいればいいわ。私一人でも十分よ」
兵として、女の力でできることはなにがあろう。
フェアラートに戦う力はない。それでも数合わせにはなるだろう。まかり間違って前線に配置された時を思うと、怖くないわけではない。
だけどフェアラートは、怖いと怯える姿は見せない。平気な顔で、なんてことないように澄ましたまま。泥臭い姿なんて絶対に見せない。フェアラートにとっての格好良さは、そういうものだった。
――格好悪い姿なんて見せられないもの。
モーントンの危機。アロイスとカミラの窮地に怯えたままなんて格好悪い。一度くらいは、あの腹の立つ領主の妻に、いいところを見せつけてやりたいのだ。
「……刺繍をしようか」
つんと澄ましたフェアラートに、ミアが言った。
「あなたが無事に帰ってくるように。怪我の一つもしないように。格好いい貴方に似合いの、針を入れるよ」
〇
カミラと過ごした一年。
カミラと歩いてきたモーントンの町。
二人の足跡が新しい道を作る。空回りし、腹を立て、怒り、傷つき、悲しみ、喜び、笑った。多くの人に触れ、無数の感情を生み出した。
すべてが今を作り出す。
窓からは、夜を払う朝日が射す。瘴気を含んだ、痛みにも似た風が吹く。
それは暗く冷たい罪人の地。百年以上をかけて踏み固められた土地を変える、新しい風だった。
「――――いいだろう!」
握りこぶしを打ち合わせ、クラウスが声を上げた。震えるアロイスを見据え、彼はまじめくさって顔を強張らせる。けれど、内心の興奮は抑えきれず、表情は笑みに近かった。
「ここまぜお膳立てされて、固いことなんて言っていられるか! 後は俺がどうにかしてやらあ!」
「……クラウス」
「大将のわがままを聞くのも、参謀の仕事だからな。代わりに、必ず連れ戻して来いよ! あんたひとりだけ戻ったとしても、もうこの土地の人間は誰も納得しないぞ!」
アロイスは頷いた。
アインスト、ブルーメ、領都に集う多くの志願兵。アロイス一人では、これだけの人を動かすことはできなかった。
カミラがこの土地にいた。カミラと共に歩んできた。それが今のアロイスを形作る。ハリボテめいた無機質な男を、彼女との日々が本当の領主に変えてくれたのだ。
「カミラあってのあんただ。あんたあってのカミラだ! 行って、帰ってこい。俺たちが、あんたらの帰る場所を守ってやる!」
「――――ありがとう」
自然と口をついて出た。その言葉は、誰に向けた礼なのか。
絶え間ない瘴気に満ちたモーントンの風。春でも冷たい北の土地。忌み嫌われる魔石の沼。アロイスの守るべき、愛しい領地すべてに向けられたものなのかもしれない。
「行け、アロイス! 馬車で五日の道程も、あんたひとりなら三日で行ける!」
アロイスは口を引き結ぶ。
疲れた体に力が戻る。今のアロイスに、恐れるものはなにもなかった。




