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6-8

「それは……?」

 アロイスは椅子に座ったまま、ニコルの持つかごを見やった。ニコルは恐縮した様子で体を縮める。

「あの、これ……奥様のビスケットなんです」

「カミラさんの?」

「はい――ええと、本当は生地だけで、焼いたのは私なんですけど」

 カミラが王都へ発つ前。練習で作られたきり、焼いていなかったカミラのビスケット生地は、ギュンターの手によって保存されていた。冷蔵の魔道具を最大出力にして、腐らないようにしていたのだと、ニコルは語った。

「ブラント料理長にお願いして、少しお譲りいただいたんです。あの、勝手なことをしているのは、わかっています。上手に焼けるまで、アロイス様には食べさせられないって奥様も言っていたのに」

 でも、と言ってニコルはビスケットに目を落とした。伏せられた目には、不安と焦燥が滲んでいる。

「奥様は、きっとアロイス様に食べてほしいと思っていたはずですから」

 ニコルはきっと、このモーントン領で誰よりもカミラの傍にいた人間だ。

 カミラに救われ、カミラを慕い、ずっと尽くすつもりでいた。それなのに、今はカミラ一人が遠くにいる。

 ニコルは一介の侍女にすぎない。カミラを救う力もなければ、アロイスたちの力にもなれない。それでもなにかをしたくて、居てもたってもいられなかったのだ。

「ええと、ビスケット、置いておきますね。朝早くにお邪魔して申し訳ありませんでした」

 ニコルは付した瞳を閉じると、切り替えるようにそう言った。ビスケット入りのかごを手近なテーブルに置くと、そのまま一礼して部屋を出て行く。

 ぱたぱたと駆けていく足音が消えれば、ビスケットとアロイスだけが部屋に残された。


 アロイスは一人、重たい体を起こした。

 それから、ニコルが置いて行ったビスケットのかごに歩み寄る。


 浅いかごにの中には、白い布が敷かれている。その上に、丸く成形されたビスケット無造作に放り込まれている。

 食欲があったわけではない。だけどカミラが作ったと聞いたせいだろうか。ほとんど無意識にアロイスは一枚手に取り、口に運んだ。


 ビスケットは素朴で、やわらかな味だった。

 どこかで食べたような気がする。料理人が作るよりも洗練されていないけれど、ひどく好ましい。この味は――――。

 グレンツェの孤児院で作られたビスケットに似ていた。


 ――――違う。


 グレンツェの孤児院で作られたビスケット、似ていたのだ。

 遠い昔にアロイスが口にした、忘れられない味に。



 ○


 顔も知れない不遇の王子。罪人の集う北の流刑地。親に愛されない子供。言いなりの中唯一求めた、変哲のないビスケット。

 両親の死と、死に際の魔法。とっておきのおまじない。カミラがかけた、ささやかな解呪の魔法。

 体の奥からなにかが溢れ出す。忌まわしい魔力と、記憶。


 アロイスは立ち尽くす。ビスケットを手にしたまま、呼吸さえ忘れた。

「――カミラさん」

 喘ぐようにその名前を呼ぶ。カミラの黒髪が、名前も知らない、泣き顔の少女と重なる。

「あなたは、また――――」

 見つけ出してくれたのだ。




 どれほどそうしていただろうか。

「アロイス、いいか?」

 約束通り時間を作ってくることができたのか。クラウスがそう言いながら、許可を待たずに部屋に入ってくる気配がした。

 背中に、クラウスが近づいてくる気配がする。だけど彼は、少し距離を置いた場所で立ち止った。

「アロイス?」

 その呼び声に、アロイスは振り返る。呆けた顔のアロイスが目にしたのは、クラウスの驚愕だった。

 クラウスは目を見開いてアロイスを見つめ、それから顔をしかめ、慌てて顔を逸らした。

「アロイス――――お前、その目を隠せ」

 言われて、アロイスは自分の目元に手を当てる。

 目元は濡れていた。頬をしずくが伝い落ちる。これが自分の涙だと、アロイスは少しの間気がつかなかった。

 涙が落ちるほどに、人の身には余る魔力が溢れ出る。それは無意識のうちに、忌まわしき魅了の魔法を形作っていた。

 アロイスは胸に手を当て、懐かしい――不慣れな魔力を体に抑え込む。その傍らで、クラウスはいまだアロイスから目を逸らしたまま、かすれた声でつぶやいた。

「思い出したんだな。自分が、本当は誰なのか」

 アロイスは無言のまま、微かに顎を引いた。

 横目でその様子を見るクラウスの顔には、どこか苦々しさが滲んでいた。



「……王都に行きたいか?」

 クラウスの問いに、アロイスは少し返答をためらった。

 だけど結局は、素直に頷く。

「ああ」

 王都にはカミラがいる。今なら彼女を、取り返せるかもしれない。

「行きたい」

 偽らざる本心だ。本当はずっと、追いかけて行きたかった。

 クラウスの表情がゆがむ。息苦しそうな顔で髪をかき、残酷な決断をためらっている。

 アロイスには、クラウスの気持ちもわかる。ためらうのはクラウスの、どうしようもない人の好さだ。

「――――許可はできない」

 クラウスは痛ましいほどの渋面で、魔力を隠したアロイスを見やった。苦しげだが、断固とした表情だった。

「さっき、ファルシュ方面から伝令が来た。攻撃の合図が、アインストとファルシュに出たらしい。ファルシュの魔術師はもう動き出している。これから、本格的な戦闘がはじまるんだ」

「……そうか」

「今の俺たちは圧倒的に不利だ。それでも人がまだ残っているのは、正当な領主がお前だと信じているからだ。相手は反乱軍、こっちに正当性があると示すのは、お前の存在なんだ」

 静かな朝。窓の外から鳥の声がする。クラウスの声は、静かな部屋に良く響いた。

「王都へ行きたい気持ちはわかる。俺がお前の立場だったら、なにを捨てでも王都へ行くさ! だってこの土地には、お前を縛るものなんか本当はなにもないんだからな!」

 本当は、アロイスにはモーントンへの責任はなにもない。民を見捨てて王都へ行っても、モーントンの民以外は誰も咎めないだろう。むしろモーントンこそが、アロイスを不当に押さえつけてきたのだと、そしられることになる。

「でも駄目だ。今お前がいなくなったらどうなる? 兵も足りない、士気も足りない。相手の力が圧倒的な状況で、戦いがはじまるんだ」

「クラウス」

「俺だって本当は行かせてやりたい。だけど俺には認めてやることはできない。行くんだとしたら、力づくでも止めてやる!」

「クラウス、わかっている」

 掴みかかりそうなクラウスに、アロイスは小さく頭を振った。

 この男は、どこまでも好い男だ。体の弱いクラウスは、力づくではアロイスに勝てない。それを知っていて、こんなことを言う。

 アロイスは良い友人を得た。数は多くなくとも、アロイスを慕ってくれる者もいる。アロイスが去れば、彼らがどれほど苦境に立たされるかも、わかってしまう。

 今すぐ王都へ行きたい。だけどこのモーントンもまた、カミラが守ろうとしたものだ。背中を向けることはできない。たとえ、アロイスの土地ではなかったとしても、アロイスにとっては守るべきものなのだ。

「私は、お前たちを置いて行くことはできない」

 目元をぬぐうと、アロイスはそう言った。努めて平静に、落ち着いた声を出したつもりだ。

 安心させるつもりの言葉に、しかしクラウスは悲痛な顔を向ける。いったい自分は、どんな顔をクラウスに向けているのだろう。アロイス自身にも知れなかった。

「アロイス、すまない」

 アロイスの顔を見上げ、クラウスは絞り出すように言った。

「せめてあと少し――状況が少しでも好転するまで待ってくれ。二日か、いや一日でもあれば――――」

 厳しい状況の中、どうにかして光を見出そうと、クラウスは頭を掻きむしる。


 だけど光は遠く、いまだ見えない。

「アロイス様! お休みのところ申し訳ありません! 急ぎ、お伝えすることがあります!!」

 荒々しい声とともに部屋に飛び込んできたのは、一人の兵士だった。よほど急いでいたのだろう。荒い呼吸に、興奮した赤い顔。異常事態だと、すぐに悟る。

 嫌な予感に、クラウスもアロイスも表情をこわばらせた。

「報告いたします! ファルシュからの戦闘指示を受け、アインストが――――」

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