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ずっと幼いころ。カミラはテレーゼと、それなりに仲が良かった記憶がある。
テレーゼの父であるノイマン子爵と、カミラの父であるパトリック・シュトルム伯爵は親しい兄弟だ。頻繁にこの伯爵邸にも訪ねて来ていた。
子爵夫妻が訪れるときは、いつもテレーゼが一緒だった。昔のテレーゼは素直にカミラを慕っていたし、カミラもテレーゼを妹のようにかわいがっていた。別れ際には帰りたくないと駄々をこねるくらいには、カミラに懐いていた。
二人の関係が変わったのは、カミラが七つか八つになったあたり。きっかけは、カミラにはわからない。
いつものようにテレーゼと出会い、いつものように別れて行った。違うのは、次第に帰り際の駄々が大きくなっていったことくらいだろうか。だんだんと帰るのを拒むようになり、それでも無理に子爵夫妻が連れ帰り――。
あるとき、ふと嫌がらなくなった。テレーゼがカミラを嫌うようになったのは、それと同じ時期だ。
あのとき、テレーゼの心境になんの変化があったのか、カミラには想像することもできない。
ただ、ひどく悲しかった。それだけだ。
〇
カミラと同じ黒い髪。
カミラと似たつり目がちな顔。だけど表情が柔らかいせいか、カミラのようなきつい印象は与えない。
笑うと花がほころぶように愛らしく、目を伏せ、沈んだ顔を見れば守りたくなる。甘え上手で誰もが愛するテレーゼは、夕刻、シュトルム伯爵家に戻ってきた。
「おかえり、テレーゼ。リーゼロッテさんとのお茶会はどうだったかい?」
「ただいま、お父さま。とても楽しかったわ。たくさんお話をしたんですの」
「テレーゼ、リーゼロッテさんはお変わりなかったかしら」
「ええ、お母さま。変わらずよ。ご結婚を控えられて、とても幸せそうでしたわ。リーゼロッテさんも、お父さまとお母さまによろしくって」
帰ったばかりのテレーゼをカミラの父と母はエントランスまで出迎えた。
テレーゼはやや疲れた顔で、しかし微笑みながら、当然のようにそれを受け入れる。親しげに言葉を交わす三人は、傍から見ればなんの変哲もない家族のようだ。
娘であるはずのカミラは、壁際に身をひそめ、遠巻きにその光景を眺めていた。
テレーゼの帰宅の報を聞き、様子をうかがいにエントランスまで出てきたものの、来たことを後悔する。
カミラのいないシュトルム家は、なんてことはない。ただ娘の挿げ替えられただけの、変わりない生活が続いていただけだ。カミラでもテレーゼでも、両親にとっては大差ない。
――いいえ。
テレーゼに接する両親は、カミラに対するよりもずっと穏やかで、柔らかい。反発と問題ばかりの娘よりも、要領が良くて、人に愛されるテレーゼの方が、ずっとシュトルム家の娘にふさわしいように思えた。
カミラは目を伏せると、両手を握りしめた。見ていられなかった。
――……戻りましょう。
このまま気が付かれる前に、立ち去ろう。そう思ったカミラの心さえ、しかしテレーゼは踏みにじるのだ。
「お父さまもお母さまも、わたしが留守の間、なにもありませんでしたか?」
テレーゼの高い声が、エントランスに響き渡る。
「見ないお方がいらっしゃるようですけど……そこにいらっしゃるのは、どなたでしょうか?」
少しだけ声量を上げ、テレーゼはとぼけたようにそう言った。彼女の視線は、覗き見をするカミラにまっすぐに向けられている。父と母に向けていた笑みをゆがめ、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「お客様かしら?」
なんということのない口調。だけどまぎれもない嫌味だと、言葉を向けられたカミラにはすぐにわかった。
部屋に戻ろうとした足が逆を向く。頭の奥が白くなる。
思考するよりも先に、カミラは声を上げていた。
「――――ここは私の家よ」
隠れていた壁から歩み出ると、カミラはテレーゼを睨みつけた。
「私がいてなにが悪いの。どなたですって? しらじらしい!」
「しらじらしいだなんて……わたし、そんなつもりじゃありませんでした」
両親に囲まれたテレーゼは、カミラの剣幕に気圧されたように体を縮め、カタリナに縋りつく。カタリナはテレーゼを守るように肩を抱いた。
昔からよく見た光景だ。正義感のあるカミラの両親は、いつだって弱いものの味方。かわいそうなテレーゼをかばい、責めるカミラを咎めてきた。
「ごめんなさい、お姉さま。まさかお姉さまが、覗き見なさっているなんて思わなかったの。まるで罪人みたいにこそこそしていらしたから――――いえ」
カタリナの腕の中で、テレーゼがくすりと笑う。
「本当の罪人でいらっしゃいましたね。すみません、わたし、本当に考え足らずで」
「罪人、ですって?」
一歩踏み出し、カミラは低い声を吐き出した。
「よくも――よくもそんなことが言えたわね! 私が罪人なら、あんたはなんなのよ! 私がいない間に、こんな……」
――こんな。
声が震える。肩を怒らせるカミラを、屋敷の使用人たちが息をひそめて見つめていた。その視線の中に、カミラへの同情もいくつかはあったかもしれない。だけど大半は、悪を責める、無責任な非難の目だ。
カミラがいない間に、シュトルム家の娘はテレーゼになった。カミラの部屋にはテレーゼが入り、カミラと親しかった使用人もほとんどいなくなっていた。屋敷はテレーゼの味方だ。
今この場で、異物であるのはカミラのほうだった。
「あんたは泥棒じゃない! 昔からずっと、私のものばっかり盗ってきたくせに!!」
お気に入りのおもちゃ、懐いた使用人。父、母、友人たち。カミラの大切なものばかり、テレーゼはかすめ取ってきた。
「私の家を返してよ! 私の家族を返しなさいよ!!」
なのに、それを責めるカミラは、弱い者いじめの悪役でしかなかった。ずっと。ずっとずっと。
「……返せなんて。わたしも家族とは、認めてはくださらないのね」
テレーゼがしおらしく目を伏せれば、かわりにパトリックが歩み出る。
パトリックの顔には正義感が浮かぶ。弱い者を守らなければならない。理不尽に責める娘を、叱らねばならない。そんな善良な人間の、善良さの発露だ。
パトリックの影に隠れたテレーゼは、きっと内心でほくそ笑んでいることだろう。けれど、パトリックもカタリナもそのことに気が付いてしまうほど、馬鹿正直な愚か者ではない。
「やめなさい、カミラ」
たしなめるようにパトリックが言った。
「テレーゼもお前同様、私たちの家族だ。お前がいない間、テレーゼがどれほどこの家のために尽くしてくれたか知らないだろう」
カミラは顔を上げ、ぎっとパトリックを睨みつける。娘の強い視線など、何度もパトリックは受けてきた。彼にとって、カミラの態度はただのわがままの癇癪だ。叱って、言い聞かせ、たしなめればわかると思っている。
「お前のしでかしたことで、失いかけた信用を繋いでくれたのはテレーゼだ。テレーゼがリーゼロッテさんの友人として間を取り持ってくれたおかげで、シュトルム家が非難を受けることもなく、変わらず暮らしていけるんだ。だから――――」
「リーゼロッテ?」
パトリックの言葉を遮り、カミラは口元をゆがめた。
「どうしてテレーゼが、リーゼロッテと仲良くしているのよ」
――あの女が私を陥れたことを、テレーゼは知っているはずなのに。
そう言いかけて、カミラは口をつぐむ。どうして二人の仲が良いかなんて、明白だった。
テレーゼとリーゼロッテは、よく似ている。その性質も、カミラを敵視していることも。
「リーゼロッテさんとは、一年ほど前から親しくさせていただいていますわ」
パトリックに庇われながら、テレーゼはか細い声でそう言った。
「お姉さまのことを相談したことがきっかけで、それ以来の付き合いですの。お姉さまがリーゼロッテさんのことを嫉妬していらっしゃるのは知っていますが、恨まないでくださいませ。あの方は、お姉さまを守ってくださったのですから」
「守った? よくもそんな大嘘がつけるわね!」
カミラが一歩足を踏み出せば、テレーゼが震える。怯えた様子でカタリナに体を寄せ、彼女の手をあざとく握りしめた。庇護を誘う小動物のようなテレーゼを、愛らしいとでも思ったのだろう。カタリナが咎めるようにカミラを見やる。
「本当ですわ。お怒りにならないでくださいませ、お姉さま。すべてわたしが悪いのです。わたしが、お姉さまの罪を胸に秘めたままにできず、リーゼロッテさんに話したときから――」
「……なにを言っているの」
「リーゼロッテさんをいじめた犯人も、根も葉もない噂を流したのも、悪人に襲わせたのも、全部お姉さまの仕業だと、わたしが言ってしまったのです。それが、殿下の耳にまでお入りになって」
テレーゼの言葉が、リーゼロッテからユリアン王子に伝わったとき、王子は怒り心頭だったという。即刻カミラの首を刎ねると言い出したユリアン王子を止めたのは、リーゼロッテだった。殺してしまうのはかわいそうだと言うリーゼロッテの説得で、王子はどうにか平静さを取り戻してくれた。
「モンテナハト卿に嫁げというのも、リーゼロッテさんが決められたこと。死んでしまうよりは、沼地のヒキガエルに嫁ぐほうがずっと良いでしょう? どんなに相手が醜く、陰気で、嫌われ者であったとしても。――――だから、リーゼロッテさんのことを悪くお言いにならないでください」
カミラは瞬いた。テレーゼの言葉を理解するために、少しの時間が必要だった。
――――つまり。
つまりはすべて――――。
「――――あんたの、せいだったのね」
カミラが王都を追放されたとき。身に覚えのない罪も、身に覚えはある誇張された罪も、すべて反論の余地もないほどの証拠で固められていた。カミラの行動ひとつ、言葉ひとつに至るまで、なにもかもがリーゼロッテいじめの証左だった。
今にして思えば、おかしな話だった。カミラの身辺の逐一を知らなければ、どこかで矛盾が生じたはずなのに。
「あんたが私を売ったのね」
カミラの声は静かだった。だけど体中が煮えたぎるようだった。
指先は血の気が引いているくせに、頭の奥はひどく熱い。驚愕と、怒りと、悲しみに染まる。
従妹として、幼いころの仲の良さをどこかで信じていた。だけどそれは、あまりにも幸せな幻想だったのだ。
「売ったなんて……ごめんなさい。お姉さまにこれ以上、罪を重ねてほしくなかったの」
テレーゼがすすり泣く。だけど本当はほくそ笑んでいる。
「罪」
言葉を落としながら、カミラはテレーゼに近付いた。笑いたくなるほど、自分自身が滑稽だった。
「よくもまあ、平気な顔で嘘が吐けるわね」
テレーゼの泣き声と、カミラの足音だけが伯爵邸に響く。息をひそめる人々。テレーゼをかばう両親。ひどい茶番だ。
テレーゼは泣きながら、内心嬉しくて仕方がないのだ。なにもかも思い通りになったのだから。
「そうやって、私の居場所を奪って満足? 私が苦しむのが楽しいの?」
「いいえ。いいえ、満足なんて。わたしはお姉さまを救いたくて仕方がないの」
「救う――――どの口が言うのよ!」
近付いてくるカミラを見ながら、テレーゼはそっと自らの唇に手を当てた。こぼす言葉は、誰にも聞こえないほど小さな小さな声だった。
「――――この口で」
語る唇が、こらえきれないようにゆがめられる。楽しくて、楽しくて仕方がないというように。
「わたし、今日のお茶会も、リーゼロッテさんにお願いをするために行ったんです。お姉さまを助けてくださいって。どんなに意地悪でも、薄情でも、かつてわたしを見捨てた方だとしても。大事な大事な、たったひとりの姉なのですから」
「姉じゃないわ!」
「いいえ、お姉さま。わたしのカミラお姉さま。わたしはあなたの妹で、わたしたちは家族。家族だから、助けるの。わたしはお姉さまとは違うもの」
「黙りなさい!」
テレーゼの正面で足を止めると、カミラはテレーゼに手を伸ばした。カタリナがカミラを遠ざけるように、テレーゼを抱きしめる。まるで本当の母娘みたいだった。
「大丈夫よ、テレーゼ。カミラは興奮しているの」
「まあ、お母さま」
カタリナの呼びかけに、テレーゼが答える。その姿がカミラの胸をかき乱した。
これまで一度だって、カミラがカタリナにかばってもらえたことがどれほどあっただろうか。
記憶を探しても見当たらない。彼女は優しい母の顔で、いつもこう言っていた。あなたは恵まれているのだから、もっと大変な人がいるのだから――――だから我慢しなさいと。
そうやってカミラを突き放してばかり。
「私のお母様よ!」
顔をゆがめて、声をからしてカミラが叫ぶ。目の奥が熱い。でも泣いたら駄目だ。
――お父様もお母様も、泣くのはわがままだって叱るから。
満たされたカミラが、なにかを求めて泣いてはいけない。両親がいて、守られていて、不自由ない暮らしができるのだから。
だけど満たされるってなんだろう? 昔からカミラはいつだって、唇を噛みしめて堪えているだけだった。
「私のもの、取らないでよ! あんたなんか妹じゃない! 私の、私だけのお母様と、お父様よ!」
喉が裂けるほどに声を上げ、カミラはテレーゼに掴みかかった。その襟首を掴んでやりたかった。卑怯者のテレーゼを安全な場所から、引きずり出してやりたかった。その化けの皮を剥がしたかった。
それなのに、カミラの手はテレーゼには届かない。その前に、なにかがカミラの腕を掴む。
「やめなさい!」
低く鋭い声は、パトリックのものだった。
今さら父親の顔をして、親らしい厳格な怒りをカミラに向けている。娘を守る、立派な父親の顔だった。
「今の言葉を取り消しなさい、カミラ。私はお前の父であり、テレーゼの父でもある。お前たちは本当に姉妹なんだぞ!」
パトリックは、残酷な言葉を吐いたカミラを睨みつけている。
「教えなかった私たちも悪かった。だが、今の言葉は聞き捨てならない。謝りなさい、カミラ。その言葉はテレーゼを傷つける」
テレーゼはカタリナにしがみついている。カタリナはテレーゼを強く抱きしめている。
パトリックはテレーゼとカタリナの前に立ち、カミラの腕を掴んでいる。
カミラは口を開いた。
なにか言おうとしたのに、言葉は出なかった。
――ああ。
そういうこと。
テレーゼの母、ノイマン子爵夫人は体が弱かった。子供を産むことは難しいと言われていた。
それなのに、奇跡的に授かったといわれている、一人娘のテレーゼ。それは奇跡なんかではなかった。
なんてことはない、ノイマン子爵の兄夫婦。パトリックとカタリナが、子供を一人あげただけなのだ。
ノイマン子爵にとって、目の中に入れても痛くないほどかわいいテレーゼ。彼をシュトルム家が取り上げたのも、さほど難しい話ではない。カミラを失くしたシュトルム家が、本当の娘を取り戻しただけだった。
なにもかも、単純な話だった。
ノイマン家は爵位が低く、経済的にも安定しない。シュトルム家の援助がなければ存続も難しかった。
テレーゼはシュトルム家の娘。なのに貧しい生活を強要され、たった一つ違いの姉は贅沢に暮らしている。
パトリックとカタリナがテレーゼをかばうのは、後ろめたさの表れだ。カミラが豊かな暮らしをしている一方で、もう一人の娘は明日の生活も危ぶまれる。かわいそうに。お前は恵まれているのに。もっと不幸な人がいるのに――――。
なんの悪気もない。すべては純粋な親切から始まった結果。優しくて、善良なシュトルム夫妻らしい真実だ。
「わかったわ」
パトリックの手を振り払うと、カミラは静かにつぶやいた。
頭の奥が冷めていく。今まで張り続けていた意地は、いったいなんだったのだろう。
苦しいとき、悲しいとき。泣き出しそうなとき。カミラは唇を噛みしめて、孤児院に通った。
もっとかわいそうな人、もっと大変な人のために、豊かで恵まれた自分を差し出した。
それは他人のためではない。自分自身が耐えるため。涙を飲み込むためだった。
だけど、カミラの両親にとっては、あまりに無価値な意地だった。カミラが孤児院に尽くしても、彼らは少しも心を動かさない。
パトリックとカタリナの『かわいそうな人』は、たった一人しかいないのだから。
「私は、お父様とお母様の後ろめたさを押し付けられただけなのね」
泣いてしまいそうだった。
それでもカミラは唇を噛む。
こんなことで自分が傷ついてきたのだと、認めたくなかったのだ。