6-4
「……アロイス、後で時間を取れないか?」
人々が部屋に戻りはじめ、閑散としたエントランスで、クラウスはアロイスを呼び止めた。
振り返ったアロイスの顔色は悪い。無理もない。領民に裏切られ、追い詰められたこの状況で、精神的な支えであっただろうカミラも失ったのだ。
心折れ、気力を失ってもおかしくない。悲嘆し、なにもかも投げ出したくもなるだろう。
実際、あちら側にとってはそれが目的なのだ。よく前を向いていられるものだと思う。
「構わないが……どうした?」
気の張った顔のまま、アロイスはクラウスに首をかしげてみせた。疲労を押し隠すその表情に、クラウスはわずかに迷う。
「少し、話があるんだ」
言ってしまってから、口から出した言葉を飲み込むように、クラウスは口元を押えた。
アロイスに、言っていいものだろうか。クラウスが告げようとしているのは、アロイスを惑わせることだ。
クラウスの話を聞けば、アロイスは王都へ行きたいと思うだろう。王都にはカミラがいる。本当は手放したくなかっただろう。すぐにでも追いかけていきたいだろうカミラに、手が届くかもしれない。
だが、アロイスには、今この場を離れてもらうわけにはいかない。目の前の危機に背を向ければ、アロイスを信じる者たちが瓦解する。守るべき領地を背にした不誠実な領主には、従う者など誰もいないのだ。
――いや。
信じろ。アロイスは自分のやるべきことを分かっている。
「あんたに関わることだ。立ち話で済む話でもない。悪いが、心してくれ」
神妙なクラウスの言葉に、アロイスがいぶかしそうに眉をしかめた。
しかし、アロイスが何か言うより先に、エントランスに慌ただしい足音が飛び込んできた。「報告いたします! 東部よりエンデ家、ファルシュの町の魔術師たちが攻撃を仕掛けてきました! 現在応戦中ですが、魔法を防ぐ手立てが――」
そう叫んだのは、領都を守る警備兵だった。アロイスがクラウスから視線を外し、報告の兵を見て顔を強張らせる。
「クラウス、話はもう少し待ってくれ――――魔法はどういったものだ。被害を教えてくれ」
アロイスは足早に兵に向かって行く。離れていくアロイスの背を睨み、クラウスは舌打ちした。
話すべき時は、いずれ必ず来る。まずは目の前のことが最優先だ。息を一つ吐き出すと、クラウスは思考を切り替える。
今の彼は、『モンテナハト家の頭脳』だ。
〇
モーントン領を出てから五日。
カミラは思いのほかあっさりと王都へたどり着いた。
旅の最中に、命でも狙われるのではないかと気を張り続けていたが、不要な心配だったらしい。使者たちは淡々とカミラを王都へ運び、そのまま王都のシュトルム伯爵邸へと連れて行った。
シュトルム伯爵邸は、カミラが出て行った頃と変わりない。春の庭には、モーントンでは咲かない花が咲き、瘴気のない風が植木を揺らす。使用人の数は、そう多くはない。すれ違う人々は、カミラの姿を見ると恐れるように目を伏せた。
屋敷の客室で、カミラはシュトルム伯爵夫妻――カミラの両親に引き渡された。簡易な言葉と書面を交わすと、それで使者たちの仕事は終わりだ。伯爵夫妻に一礼すると、彼らは呆気なく去っていった。
客室には、カミラと夫妻が残された。
空は嫌味なくらいに明るい青空だった。白い雲が流れ、鳥が空を飛ぶ。窓から見える王都の通りは賑やかで、あちこちに祝いの花が飾られていた。
ユリアン王子とリーゼロッテの、結婚を祝福する花だ。間もなく訪れる祝福の日を待ち望み、都は喜びに満ちていた。
だがその喜びに、カミラの存在が影を落とす。
外の明るさとは裏腹に、一年ぶりに見る父と母の顔は暗い。カミラを見る目は、娘を懐かしむものでは決してなかった。
「カミラ――お前は……お前というやつは……!」
カミラの父、パトリック・シュトルム伯爵は、声を震わせてそう言った。温厚で人好きのする顔が、今は怒りにゆがんでいる。この一年で苦労も増したのだろう。カミラと同じ黒髪に、白髪が目立つようになっていた。
「なんということをしてくれたんだ……どうしてこんな……!」
パトリックの横で、母のカタリナが目を伏せる。青い顔で、まるで自分の罪を責められているかのように怯えていた。
歓迎されていないことは、屋敷に足を踏み入れた時からわかっていた。
「いったいなにが不満だったんだ! どこまで私たちを裏切るつもりなんだ!」
「――裏切るって、なによ」
「私たちはお前を愛していた。お前に苦労をさせず、わがままを許し、良いことと悪いことを教えてきた。なのにお前は、またしても私たちの期待を裏切った!」
強く拳を握りしめ、パトリックは唇を噛みしめる。悔しそうで、苦しそうで、悲しげだった。その顔に浮かぶ失望は、子供の心を引き裂くものだった。
「殿下の慈悲で、お前はモーントンでやり直す機会を得た。なのに、私たちはお前に反省を教えることはできなかったのだな。殿下の優しさを踏みにじり、私たちのことなど忘れ、お前は――」
パトリックは喘ぐように息を吸う。それから、怒りと共に言葉を吐き捨てた。
「お前は、モーントン領でモンテナハト卿を惑わせ、道を誤らせ、反乱を引き起こした」
「そんなこと、していないわ!」
「この期に及んで、まだ嘘を吐くのか! 証人だっているのだぞ!」
「証人って誰よ! 私は嘘なんて吐かないわ!」
「見苦しい! どうしてお前は昔から、素直に謝ることができないんだ!!」
――どうして。
カミラは顔をゆがめる。
どうして、この人たちは子供の言葉を信じないのだろう。
昔からそうだった。カミラとテレーゼがいれば、二人はいつだってテレーゼを信じた。泣いている誰かと、泣かない勝ち気なカミラを見て、お前が悪いと責めるのだ。
もっと苦しい人がいるから、たいへんな人がいるから、お前は恵まれているのだから。だから泣いては駄目だ――そう言って、カミラの涙を封じたのは、父と母だというのに。
「お前には豊かで、自由な暮らしをさせたはずだ。なのに、どうしてこんなに歪んでしまったんだ! どうして私たちの愛を裏切ることができるんだ!!」
「やめて! あなた! もうやめて!!」
カタリナがパトリックの体に身を寄せて、泣きながら首を振った。パトリックがかばうように、カタリナの肩を抱く。それから、どうにか平静になろうとするように、深く息を吐き出した。
「……三日後に、お前の裁判が行われる。それまではここで――最後に家族で過ごせるようにと、お慈悲をいただけた」
予感はしていた。
旅の中。カミラを運ぶ使者たちは、慇懃ではあったものの――まるで犯罪者に接するような態度だった。
「反省してくれ、カミラ。最後は家族四人で、穏やかに過ごせるように。――お願いだから、これ以上、親を悲しませないでくれ」
カタリナのすすり泣きの中、パトリックが静かに告げた。
怒鳴り返す言葉もなく、カミラは奥歯を噛みしめた。王都を去るときも、王都へ戻ってきても、両親は変わらず。
今も昔も、カミラのことをひとかけらも信じてはくれない。