6-1
シュトルム伯爵家令嬢、カミラ・シュトルムは悪役である。
ゾンネリヒト王国の第二王子ユリアンと、男爵令嬢リーゼロッテとの恋仲を引き裂いた嫌われ者であり、蛇のように執念深い恐ろしい女。権力に固執し、公爵をたぶらかした、危険で破滅的な女。
――こんな滑稽なことってあるかしら。最高の皮肉だと思わない?
あの女の言葉に納得した。それが最初の間違いだった。
あんなたわ言など聞かず、やはりあのとき処分しておくべきだったのだ。
カミラ・シュトルムは悪役でなければいけない。
〇
「――――ゲルダが逃げた!?」
領民の蜂起から三日。
対応に追われるアロイスに、聞きたくない報告が飛び込んできた。
領都の別邸が襲撃され、軟禁していたはずのゲルダがさらわれたのだという。同じく軟禁していたメイド頭と従僕の姿もない。彼らも同様に、逃がされてしまったのだろう。
「警備は増やしていただろう!? 狙われやすい場所だと言っていたはずだ!」
執務室まで報告に来た従僕に、アロイスはそう言った。
反乱の理由は、アロイスによる統治への不満。特に、他家重鎮に対する不当な扱いだ。
確たる証拠もなく、レルリヒ家当主の姉であるゲルダを罪人扱いしたこと。マイヤーハイム家の従妹にあたるメイド頭を、ゲルダの協力者として糾弾したこと。それ以外にも、アロイスの断行により多くの人間が解雇されたこと。
中でも、マイヤーハイム家当主の次男にあたる、家令のウィルマーの解雇には納得がいっていないらしい。マイヤーハイム家はウィルマーを前面に押し出し、アロイスの統治能力をなじっていた。
だからこそ、『不当に拘留されている』ゲルダは狙われやすいと思っていた。まだ安全な領都内部であっても、万が一に備えて警備を固めていたのだ。
「は、た、たしかに、そ、その通りではありますが……」
荒い声を上げてしまったことに、おののく若い従僕の姿でようやくアロイスは気が付く。自分が思うよりも追い詰められていたのだ。深く息を吐くと、彼は意識して声を落とし、もう一度呼びかけた。
「……ゲルダは領都内部の屋敷にいたはずだ。町は警備兵が守っているし、町中に侵攻されてはいないだろう? どうやってゲルダを奪うことができた?」
「はい。それが――――内部の人間のしわざのようで……。屋敷の襲撃前後で、何名かいなくなったものが」
アロイスは腕を組む。答えるべき言葉がすぐに出ず、悔しさにただ唇を噛む。
ゲルダとウィルマーは、曲がりなりにも長らくモンテナハト家を支えてきた人間だ。その二人の排除に首をかしげる人間は、領都の中にも存在する。ゲルダがアロイスに毒を盛ったことが知れ渡ってもなお、信じない人間もいる。
本当の犯人は、カミラだったのではないかというのだ。カミラが毒を盛り、ゲルダに罪を着せた。アロイスは、カミラが来てからおかしくなった。だから、カミラを追い出し、ゲルダたちを元の座に戻せば、この騒動も収まるのではないか、と。そういう人間が、領都内にさえ少なからず存在する。
だがこれも、理由があってしたことだ。反発はあっても、理解を得られると思っていたのは、甘い考えだったのだろう。現実は反乱が起き、直轄地である領都の民ですらアロイスに疑惑を抱いている。
良き領主であろうと、これまで自らが積み上げてきたものの脆さに気が付かされる。
領民にとってアロイスの存在は、ゲルダやウィルマーにも劣るもの。信頼を得ることのできなかった自分自身に、アロイスは失望した。
カミラがアロイスにさんざん言っていたとおり、アロイスは表面的で、不誠実で、相手と正面から向き合わない。はりぼてめいた彼の存在は、人の心を動かさない。カミラに触れ、変わりたいと願っても、すぐに変われるわけではない。変わろうとするアロイスを、誰もが気付き、認めてくれるわけではない。
ひどく歯がゆいけれど、それもまたアロイスのしてきたことだ。
「アロイス様、どうかされましたか?」
押し黙るアロイスに、従僕は心配そうに声をかける。
「やはりお疲れなのでしょか。お休みを取られた方が……」
ここ数日、アロイスは寝る時間もろくにとれないまま、反乱に対応していた。精神的にも肉体的にも参っているのは間違いない。
それでもアロイスは領主だ。安心させるように笑みを作ると、アロイスは首を振った。
「いや、なんでもない」
過去のことは、思い悩んだところで現状を換えられない。
反乱側の要求は、解雇した人間たちの復帰と、ゲルダの冤罪を晴らし、元の地位に戻すこと。そして、『真の犯人』であるカミラを罪に問うことだ。
要はカミラを排斥し、ゲルダの前にもう一度首を差し出せという。彼らの要求を、アロイスには認められるはずがない。せめて交渉をしようと送った使者も追い返される。
ならば、あとは向き合うほかにない。アロイスが挫けてしまえば、危機に陥るのはカミラなのだ。
「ゲルダのことだったな。まだ遠くには行っていないはずだ。すぐに彼女の行方を捜してくれ。あとは、いなくなった警備兵の身元の確認と、それから――――」
〇
アロイスは休みなく働いている。もともと働きづめの人間だったが、ここ数日はなおさらだ。
ひっきりなしに報告が入り、ひっきりなしに指示を求められる。寝る時間も食事の時間もない。カミラと顔を合わせる時間も、当然ない。状況が状況だけに、理解はしている。
――力になりたい。
アロイスのために、なにか自分にできることはないのだろうか。ずっと考えていた。
カミラのその願いは、思いがけず叶えられることになる。
ゲルダの逃亡が知れ渡ったその日の晩。王家から送られてきた、火急の使者たちの手によって。