5.5-3(終)
「――――おいおい、親父……それ、正気かよ」
ブルーメにあるレルリヒの屋敷。人払いをした当主の部屋で、クラウスはどうにか言葉を吐き出した。
春に似つかわしくない寒気が、クラウスの肩を震わせる。陽の傾いた時間、窓から差し込む斜光が、暗い影を落とした。
クラウスに向かい合うのは、レルリヒ家の現当主。クラウスの父でもあるルドルフだ。青ざめたクラウスよりもなお青白い顔で、彼は怯えたように目を伏せる。
「いきなり軍備を始めたかと思えば、これかよ。伯父さんの野望なんて比較にならないぜ。あんた、自分でなにを言っているのか、わかってんのか?」
きつい口調のクラウスに、ルドルフは小さく首を振る。
「わかっている。これは、モンテナハト家に仕える三家の当主と、それに近しいごく一部の人間しか知らない事実だ。我々は、この秘密をなんとしても守り抜かなければならない。――と、姉さんはそう言っていた」
「そりゃ、そうだろうな。こんなもん、誰にも言えるわけねえよ……!」
頭を押さえるクラウスを、ルドルフは見上げた。その視線に微かな安堵が含まれているのは、抱き続けた重責をクラウスに押し付けたせいだろう。だが、押し付けられた方はたまらない。
「なんでこんなこと、今になって俺に言うんだよ。ああクソ、どうりで――」
どうりで――思い当たる節がクラウスにはある。ずっと疑問に思っていた、ルーカスとゲルダの対立だ。
ルーカスは感情的で癖があるが、御せない相手ではない。野望のためには前のめりに動く彼は、むしろ扱いやすい捨て駒だ。ゲルダが適当な知恵を与えてやれば、ルーカスは思い通りに動くだろう。熱意と行動力だけは人一倍あるのだから、利用する価値はありそうなものを、ゲルダは不思議なくらい正面からぶつかり合っていた。
扱いにくさで言うのならば、ゲルダが次期当主にと擁立したクラウスの方がずっと上だろう。クラウスはゲルダの言うことを聞く気はないし、彼女の望みをかなえるつもりもない。クラウスには、彼自身にとっての良い町、理想がある。それはおそらく、ゲルダと相対するものだ。
それでもゲルダは、クラウスを選ばざるを得なかった。
「伯父さんは王家も狙っていたからな。絶対に秘密を知られるわけにはいかないってことかよ」
クラウスには分不相応な野望はない。盲目的な熱意もない。大切なものと正義感をはかりにかけ、口をつぐむべきことがあることも知っている。
そしてこの秘密は、隠すべきことだった。レルリヒのために、ブルーメのために、そして自分自身のためにも。
「……なあ、クラウス。私はこれからどうすればいい?」
奥歯を噛むクラウスを、ルドルフはぼんやりとした顔で見つめた。子供みたいな口調の父に、クラウスの表情がゆがむ。
ルドルフはすがるように、子供が親に乞うように、自身の子であるクラウスに呼びかける。
「姉さんがいなくなって、私はもうどうすればいいかわからないんだ。お前ならきっと、わかるんだろう? だってお前は、姉さんが選んだんだから……」
ルドルフの姉、クラウスの伯母であるゲルダは、半月ほど前に捕まった。領主であるアロイスに毒を盛ったのだと、すぐにこのブルーメにも伝わった。
レルリヒ家の実際の支配者であるゲルダの喪失。それは意外なくらい、レルリヒ家を乱さなかった。ルドルフは姉が捕らえられると、騒ぎ立てることもなく、淡々と兵をかき集め始めた。解散させたばかりのルーカスの傭兵や、町の人間を捕まえて即席の兵団を作ると、彼は他家と足並みをそろえ、モンテナハト家に反旗を翻した。
反対の声は聞かず、クラウスの静止も聞かずに、わずか十数日でここまでを成し遂げた後。彼は今、途方に暮れていた。
「姉さんは、ここまでしかやることを教えてくれなかった。あとはどうすればいい? 私はこのまま戦うのか? それとも何もしなくていいのか? マイヤーハイムが総攻撃を仕掛けると言っているが、そんなことして姉さんに、叱られないか?」
ルドルフは、言いつけをよく守る男だった。ゲルダの無茶な言いつけも、難題も、どうにかしてこなしてしまう。能力があり、小器用で、そつがない。傍から見れば、彼はそれなりに立派な貴族の当主であった。
だが、それも今や見る影もない。ルドルフがここまで情けない男だとは、息子であるクラウス自身も知らなかった。傀儡には向いていたが、操るものがなければ、ただの抜け殻だ。
目の前の父の姿は、アロイスを連想させた。
ルドルフは、いつかなるはずだった理想のアロイスだ。カミラに出会うことなく、クラウスが嫌いだったアロイスのまま育ち、自我が消え、思い通りに動く。ゲルダにとっての理想の人間だ。
「クラウス、教えてくれ。お前はきっと、正しい道を選べるのだろう? だから姉さんは、お前を選んだのだろう?」
ルドルフが弱々しく手を伸ばし、クラウスの両手を握った。
「姉さんはいつも正しかった。私はそれに従うだけで良かった」
「……正しいってなんだよ」
クラウスは握り返すことはせず、震える声を出した。自らの父のことが理解できなかった。
「許されないことだって、わかってんのかよ! あんたらがしたことは反逆だ! この国の平和を乱す、罪深いことなんだ!!」
「姉さんが、これが正しいと言ったんだ! ずっと間違えなかった姉さんが、間違えるはずがない!」
「そのせいで、俺たちまで危機に晒してんだぞ! レルリヒだけの問題じゃねえ! ブルーメも、モーントン領も全部、なくなったっておかしくないことをしたんだ!」
「私じゃない!!」
ルドルフが、握りしめたクラウスの手の甲に爪を立てる。血が滲んでも、興奮が痛みを感じさせなかった。
「姉さんが考えたことだ! マイヤーハイム家が指示を出し、エンデ家がそれを実行した! 私はただ、モーントンの伝統に従っただけだ!!」
「だけど、当主はあんただろうが!」
「私は当主だっただけだ!!」
擦り切れるほどの声を上げると、はっとしたようにルドルフは口をつぐんだ。恐れるように周囲を見渡すが、部屋の中には誰もいない。すっかり日の暮れた暗闇の中、クラウスがいるだけだ。
「……仕方のないことだろう?」
ルドルフは息を吐くと、打って変わって媚びるような甘えた声を出す。
「だって、逆らえば我々もブラント家と同じ目に遭う。地位を失くし、町を追われ、隠れるように生きなければならない。そんなこと、当主として、父としてさせるわけにはいかないだろう?」
「親父」
自らを握る父の手の強さに、クラウスはめまいがした。
「なあ、クラウス。私にはもうお前しかいないんだ」
暗闇に落ちるルドルフの声は静かで、柔らかい。
「私を導いてくれ。お前の言うことをなんでも聞こう」
クラウスは笑うように顔をゆがめた。きっと本当に、この男はクラウスの言葉通りに動くのだろう。そのために、良いことも悪いことも、すべて正しいと信じてこなす。
それはきっと、幸せなことだ。
「クラウス……」
ルドルフの目は期待に満ちていた。
ゲルダが選んだクラウスは間違えない。
ゲルダの意思を正しく受け継ぎ、ルドルフを幸福な傀儡としてくれる。レルリヒを、ルドルフを破滅から遠ざけてくれる。
そう信じている。
「――――買いかぶりすぎだ、親父」
だけどこの男はわかっていない。おそらくは、クラウス自身も理解していない。
普段から小馬鹿にしている伯父のルーカスと、クラウスは意外と似ている。
「俺が伯母さんの思い通りになるわけないだろう」
クラウスは、自分で思うよりもずっと短絡的で、感情的なのだ。
ルドルフの手を振り払うと、クラウスは手近な飾り棚を蹴り倒した。雑貨が音を立てて転げ落ち、飾られていた壺が割れる。落ちた壺の破片を取ると、クラウスはそのまま、自分の顔を切りつけた。
赤い血が吹き、痛みが走る。こめかみから頬にかけて、慣れない手は思いのほか深く自分自身を傷つけたらしい。
突然の奇行に、ルドルフは唖然としていた。そのルドルフに、クラウスは自分を切った破片を放る。ルドルフは戸惑いつつも、反射のように破片を手にした。
「クラウス……なにを……」
言いかけたルドルフの言葉を、無数の足音がさえぎった。異常な物音に駆けつけた使用人たちが、勢いよく部屋の扉を開く。
部屋の中にいるのは、傷ついたクラウスと、凶器を持つルドルフだ。なにごとかとざわめく使用人たちに、クラウスは叫んだ。
「こいつを捕まえろ! いきなり襲い掛かってきたんだ! 気が狂ってやがる!」
クラウスの言葉を、ルドルフはすぐに理解ができないようだった。クラウスの言葉に使用人たちが反応し、一斉に取り押さえる。その間も、彼は無抵抗に瞬き続けるだけだった。
クラウスは手のひらで傷を押えながら、床に押さえつけられたルドルフを見下ろした。こんな状況になっても、彼は否定の言葉一つ発しない。ただ命令してくれる誰かを探して視線をさまよわせるだけの、まぎれもない狂人だった。
「――レルリヒは俺が引き受けてやる。後始末をしてやるよ」
自我のないルドルフに、クラウスは吐き捨てるように告げた。
「だけどあんたを楽隠居なんてさせてやらない。自分の罪の重さを知りやがれ!」
たとえ父親だとしても、クラウスはルドルフのしたことを許せない。
それは正義感かもしれない。ルドルフへの失望ゆえかもしれない。一族郎党を危機に巻き込んだことへの怒りかもしれない。
あるいはもっと純粋な――友情のためかもしれない。
〇
「兄貴――あんた、自分で傷つけたんだろう」
騒動の翌日。自室で荷物をまとめるクラウスに、勝手に部屋に入って来たフランツが言った。
「よくわかるな」
クラウスは振り返らずに返す。傷は一通りの手当てが済み、今は血も止まった。だけど口を動かせば、やはり痛む。
「見ればわかる。他人が作る傷は、そうはならない」
「ふうん。……伯父さんに付き合って剣を習っていたときの知識か? 案外役に立つんだな」
「なんでそんなことしたんだ」
クラウスの軽口を無視して、フランツは詰め寄るように言った。それでもクラウスは手を止めない。部屋中をひっくり返しながら、荷物に放り込むのは、傷に塗る薬、痛み止め、簡単な食糧。着替えはいらない。できるだけ荷物は小さいほうがいい。
「これが一番穏便な方法だからだよ」
「穏便?」
フランツがいぶかしげに問い返す。クラウスのしたことは、穏便とは程遠い。自ら顔を切り付け、父親を狂人に貶めたのだ。
その父であるルドルフは、現在は屋敷の一室に見張り付きで閉じ込められている。丸一日経った今でも、文句や抵抗をするそぶりは見せず、ただ魂が抜けたように茫然と、部屋で過ごし続けていた。
唐突過ぎる軍備と、意図のわからないモンテナハト家への反逆もあったおかげで、今や屋敷の人間はクラウスの言い分を信じ、ルドルフを狂人とみなしている。
「手っ取り早く家督を譲り受けるためには、穏便だろう。親父が冷静じゃ、納得しないやつも出てくる。親父のたわ言に耳を貸す人間でも出てきてもいけない。見張りもつけておきたかったし」
そもそも、まっとうに相続をするためには、時間が足りなすぎた。今すぐ家督を得ること。ルドルフの権力を無にすること。ルドルフを見張ること。すべてまとめて行うには、これが一番早かった。
「あんた、なにを……」
「俺はこれから、領都に行く」
荷物をまとめると、クラウスはやっとフランツに振り返った。クラウスの服は、動きやすい旅装だ。今すぐにでも飛び出していける。
「俺がいない間、留守を任せる。親父はしっかり見ておけ。そんな勇気はないだろうが、万一にでも首をつらせたり、舌を噛ませるな。あいつは証人だ」
「兄貴、なに言ってんだよ。任せる? 俺は謹慎中だぞ」
フランツは、数か月前に起こした事件のせいで、今もなお謹慎中だ。外出も禁じ、人との接触も極力控えられている。せいぜい言葉を交わすのは、身の回りを世話するメイドか、クラウスくらいだった。
「謹慎は俺が解く。お前はできるだけ、ブルーメのやつらを傷つけないようにしろ。モンテナハト家の人間と戦わせるな。できるだろう?」
クラウスはフランツの疑問には答えない。言いたいことだけを言うクラウスに、フランツは疑惑の目を向ける。
クラウスも視線を返す。しばらくにらみ合ったのち、フランツは口を開いた。
「わかった。あんたがそこまで言うなら、理由があるんだろう」
「悪いな。お前が一番頼りになるんだ」
そう言って、クラウスはフランツの肩を叩いた。
後は振り返らず、部屋を飛び出す。
ブルーメから領都まで、早駆けの馬で丸一日。クラウスの体力では、もっとかかるはずだ。
気が急く。きっともう、時間がない。
アロイスにとっても、ゲルダたちにとっても。