5.5-2 遠い記憶
母の愛が、ユリアンを冷たい塔に閉じ込めた。
塔を訪れるものは、ほとんどなかった。父と義母兄が、時折訪ねてくるくらいだ。
塔は母の胎内のようだった。外の世界を遠ざけ、ユリアンになにも与えず、ただ守り続けた。同じ年頃の子が持つものを与えず、痛みも苦しみも教えない。それはたしかに愛であったのだろう。だけどあまりにも、独善的だった。
永遠にも似た母との世界で、ユリアンはずっと、弱りながら死に向かう母の姿を見続けた。母が喪われたとき、ユリアンが悲しみと共に感じたのは、もしかしたら安堵だったのかもしれない。
母の死後、ユリアンは塔を出た。
周囲の視線は、優しいものではなかった。無数の好奇の目は、塔から産まれ出たばかりのユリアンには、あまりに息苦しかった。
だけども、ユリアンの目を覆い隠す母は、もう世界のどこにもいなかった。
〇
手作りのビスケットは、素朴な味がした。
食べると、なぜか涙が出てきた。
隣では、ユリアンと同じように泣いている少女がいた。自分よりもずっと小さな子と二人、そろって泣いているのがおかしくて、泣きながら妙に笑えてしまった。
外の世界で、ユリアンははじめて呼吸ができたような気がした。
ビスケットをくれた少女の名前を、ユリアンは知らない。
少女もまた、ユリアンが何者かを知らない。それどころか、少女の目に映るユリアンは、本当の姿でさえもなかった。
魔力を制御できない限り、ユリアンの姿は変わり続ける。母がいなくなれば、誰かが代わりをするのだろう。義母兄や父だって、魔法にかかったユリアンしか見たことがないのだ。ユリアンの真の姿を知る人間は、驚くほどに少ない。
だから――――誰かに、覚えていてほしかったのかもしれない。
「もう一度会える?」
そう言った少女に、ユリアンはひとつの魔法を教えた。王家の術式で描く、王家直属の解呪の魔法だ。
少女の描く魔法を、ユリアンは自分自身にかけさせた。
母がかけた魔法が解けていく。
白銀の髪。赤い瞳。王家の特徴を映す顔立ち。
驚く少女に、ユリアンは微笑みかけた。
「きっと、また会えるよ」
ユリアンは立ち上がる。
周囲からは、ユリアンを探す声がした。母の葬儀を抜け出してから、ずいぶんと時間が経つ。ユリアンを呼ぶ声にも焦りが見られた。そろそろ、戻らなくてはならないだろう。
「だから、どんな姿になっていても――――また、僕を見つけ出してね」
そう言うと、ユリアンは少女を置いて、声に向かって駆けだした。
もう、息苦しくはなかった。