5-13
「花の色?」
アロイスの言葉を、ゲルダは繰り返した。ゲルダは片眉を上げただけで、その顔には驚きも戸惑いもない。
「私が知っていることの、なにがおかしいと言うのです。アロイス様が倒れられた際に、私も見たと言ったはずです」
澄ましたゲルダの代わりに、メイド頭と、彼女の連れた従僕の一人が青ざめる。調味をしたと証言した、あの男だ。
アロイスの視線から逃れるためか、二人は顔を隠すようにうつむいている。
アロイスにまっすぐ顔を向けたままの、ゲルダの表情だけが変わらない。花の色は赤。それを彼女は疑っていないのだ。
「……私が倒れたときか」
食事に盛られた花を思い出しながら、アロイスは静かに息を吐く。
「あのとき、私はとっさに、花を隠した。毒だと思ったわけではないが――――連想を避けるためだった」
アロイスは、花にカミラの面影を見ていた。直近で花の町ブルーメに行ったこともあり、カミラと結びつけやすい。当時、そこまで考えていたかどうかは思い出せないが、カミラをかばう意図があったのは覚えている。
花はアロイスの手の中で面影を失くした。加工された花はもろく、手の中で砕け、一見しても花とは判別がつかない姿になった。
それをゲルダは、命じてすぐに片付けさせたと言ったのだ。
「お前は本当に、あの場で花を見たのか?」
「……おそらく、隠し損ねたのでしょう。私は、たしかにこの目で花を見ました。あなたを害した毒の花を」
「あくまでも言い張るのだな?」
アロイスは確かめるようにそう言うと、ゲルダから視線を逸らした。
彼の目は次に、メイド頭に連れられてきた、年若いメイドたちに向けられる。
「先ほどの話をしてくれるか」
二人のメイドは顔を見合わせた。迷うようなメイドたちを、メイド頭が言葉もなく睨みつける。メイドたちは怯えたように体をすくませるが、それがかえって決意を刺せたらしい。互いに頷き合うと、はっきりと告げた。
「私たちがアロイス様の元へ料理を運ぶとき――赤い花はありませんでした。添えられていたのは、色褪せたような白い花だけ。間違いありません!」
「そういうことだ。おそらくは、毒の花は途中で色が抜けるのだろう。私が見たときも、すでに色は白くなっていた」
だからこそ、ブルーメでのカミラを思い出させたのだ。白い花畑。白い花冠。彼女はアロイスの中で、あれからずっと白い花だった。
「ゲルダ、もう一度聞く――――お前は本当に花を見たのか?」
ゲルダは答えない。
黙って背筋を伸ばし、アロイスを見据えている。表情は――かすかに強張っている。
「見ていないのであれば、なぜ花を見たなどと言った? なぜお前は、見ていないはずの本来の色を知っている?」
口には出さずとも、アロイスの意図はゲルダ――ゲルダたちに伝わっているだろう。ゲルダは毒の色しか知らない。それはすなわち、彼女自身がアロイスに毒を盛ったわけではないと言うことだ。
協力者がいるのだろう。ゲルダの代わりに毒を盛り、ゲルダの身代わりを作り上げる人間が。
「ゲルダ様――――」
メイド頭が、微かな声でゲルダを呼ぶ。その声を消すように、ゲルダは口を開いた。
「色など些末なこと。きっと記憶違いです。毒という事実から、赤を連想し、そう思い込んでしまった。よくあることでしょう」
声は確かで、相手を一喝するような響きだった。
「これだけの証拠があり、これだけの証人がいるのです。私の誤りひとつで、なにが変わりましょう」
「記憶違いを認めるのであれば、他の者たちにも同じことが言えるはずだろう」
他の者たち。アロイスは誰とは言わず、カミラにとって不利な証言をした二人を順に見やる。
「小箱はどこで見つけた?」
最初は、メイド頭だ。アロイスの問いかけに、彼女はほんの一瞬だけためらい、それから台本を読むようによどみなく答えた。
「あの女の部屋にございます。小箱が部屋にあることは、掃除をするメイドたちはみんな知っております」
「――――そんなはずないわ! その箱は失くしたのだもの! アロイス様が倒れられる、何日か前に!」
とっさにカミラは、メイド頭の言葉に反論する。
「ニコルだって一緒に確認したのよ! 嘘だと思うのなら、ニコルに聞いてみなさい!」
「ニコルなど、屋敷に来たばかりの出来の悪い新人ではないですか! あなたに親身な小娘の言葉など、信憑性はありません!」
「いや」
二人の言い合いを止めたのはアロイスだ。
「有能な侍女長でさえ、記憶は誤るものだと認めた。ならば、信憑性は人に寄らないということ。若い侍女の言葉も、お前の言葉も等価値だ」
「アロイス様……!」
信じられない、と言いたげにメイド頭はアロイスを見やった。メイド頭は屋敷の使用人の中でも、高い地位を築き上げてきた者の一人。未熟な元部下と同じと言われ、誇りを傷つけられたのだろう。
「箱は彼女の部屋にはなく、まったく別のところから見つけてきたものだった。それを『記憶違い』で、彼女の部屋から見つけ出したと言ってしまったのかもしれない」
「そんな……!」
傷ついたメイド頭から、アロイスは目を逸らす。次は従僕だ。視線を向けられ、従僕はぎくりとしたように体を強張らせる。
「厨房から出た料理に、すでに花が乗っていた。これも『見間違い』かもしれない。一人の言葉だけではなく、厨房の者たちにも話を聞いてみるべきだろうな」
「あんな、ならず者どもを信じると!?」
従僕は悲鳴じみた声を上げる。厨房は、アロイスが見出したギュンターをはじめ、ブラント家の人間が多い。ブラント家は他家に疎まれ、没落した貴族家。料理の腕は高くとも、他家にとっては唾棄すべき一族だった。
「彼らの記憶の方が正しいこともあるだろう」
ゲルダが言葉をひるがえすとは、すなわちそういうことだ。『たしかに見た』とまで言いながら、それを言葉尻と言い、記憶違いと流せるのであれば、他の者の言葉も同様だ。信憑性など塵に等しい。
「アロイス様。私の記憶違いで惑わせてしまいましたが、それであの女の疑わしさが失われたわけではありません」
口をつぐんだメイド頭と侍従に変わり、ゲルダは再び口を開いた。
「私どもは、長年屋敷に仕えてきました。モンテナハト家に忠誠を誓い、尽くしてきたのです。まだ互いも知らない相手と、どちらの言葉が信ずるに値するか――――賢明なご判断をくださいませ」
手を前にして、ゲルダはアロイスに一礼する。その仕草だけで、彼女が折り目正しい、素晴らしい使用人だとわかるだろう。
「……確かに、お前は忠実だった」
モンテナハト家のために尽力し、モンテナハト家を第一と考え、休みなく働いた。屋敷の管理を取り仕切り、余すことなく目を配り、使用人一人ひとり、備品の一つに至るまで、ゲルダの知らぬことはなかった。
ゲルダは若いアロイスにとって、頼りになる人間だった。彼女のかたくなさ、閉じた思考は厄介であっても、屋敷を担う手腕に間違いはなかった。だからこそ、彼女は今も屋敷を任され続けているのだ。
「だが、お前が忠実であったのは、『モンテナハト家』だ」
彼女の主人は、あくまでも家。モンテナハト家のためであれば、アロイスを殺すことさえ厭わないだろう。
「私はお前への疑惑を消すことができない。お前の話は、確かに筋が通るのだろう。だが、お前が私に毒を盛ったと考えても、筋を通すことはできる」
赤い花は今、カミラの証拠にも、ゲルダの証拠にもなりうる。確定的な判断材料が無くなった今、残っているのは二人へ向かう疑念だけだった。
カミラか、ゲルダか。あるいは弱気に、不問にするか。
ゲルダは決定をアロイスにゆだねた。この場の結末は、アロイスの心ひとつで決まる。
「短い間でも、私は彼女という人間を見た」
ゲルダの言う通り、カミラがアロイスに毒を盛ることはできただろう。
だけど、カミラはそんなことをしない。根拠はどこにもない。ただ、アロイスが見てきたカミラの人物像だけが、そう思わせるのだ。
グレンツェで、アインストで、ブルーメで。この屋敷の中で。アロイスは様々なカミラを見てきた。
短気で、怖いもの知らずで、高慢かと思えば、花のように清い。感情豊かで、よく怒り、よく傷つき、よく笑う。清濁を併せ持った、アロイスにとって誰よりも人間らしい人間だった。
この屋敷で、感情を殺し、表情を隠し、優しさも厳しさも飲み込んだアロイスとは、正反対の人間だった。
アロイスは顔を上げた。しがみついた過去。古い記憶。恐れ、迷い、ためらいを払う。
ゲルダこそは、この屋敷における父の象徴だ。父を今も『旦那様』と慕い続ける使用人たちのとりまとめ。苦痛の過去にして、アロイスの支えの一つだった。
だが、それも捨て去るときだ。アロイスは過去の呪縛に、長くとらわれ過ぎていた。
「彼女とお前たち。どちらかを選ばなければならないのであれば、私は彼女を信じよう」
古い時代はとっくに終わった。
今はアロイスこそが、モンテナハト公爵なのだ。