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5-9

 アロイスがいたのは、私室の隣にある物置だった。

 いつだったか、ニコルが忍び込み、皿を割ってしまった秘密の部屋だ。いったいどういうつもりで、この部屋に食事を用意したのだろう。古い家族の肖像画の前で、アロイスはひとり。古びたテーブルに向かい、カミラに背中を見せ、なにか食べている。

 部屋に足を踏み入れると、肌がひりついた。魔力のほとんどないカミラでもわかるくらいに、この部屋には魔力が満ちている。

 一瞬ためらいそうになる足を叩き、カミラは部屋に踏み出した。

「アロイス様!」

「すみませんが、放っておいてください」

 しかし、勇気を出したカミラをくじくように、アロイスが端的に告げる。カミラには振り返りもしない。

「私は大丈夫ですから。今日はもう、一人にしてください」

 突き放す言葉に、カミラはむっとする。こうやってこの男は、いつだって人を寄せ付けようとしない。

「期待させないでください。カミラさん。どうか、このままお戻りください」

「そうはいくもんですか!」

 アロイスの静止を無視し、カミラは部屋へ踏み込んでいく。カミラの足音と、静かに食事をするアロイスの物音だけが部屋に響く。食べても食べても、食べきれない。

「アロイス様、なにを食べていらっしゃるんです!?」

 歩きながら叱るように言えば、案外素直に答えが返ってきた。

「……なにを食べているんでしょうね、僕は」

「アロイス様?」

「僕が口にしているのは、いったいなんなのでしょう」

 カミラから見えるのは、アロイスの背中だけだ。アロイスの食卓には影が落ち、先代モンテナハト公爵が、その様子を見ている。

「味もわからない。量も知れない。飲み込むことしか許されない。毒を混ぜてもわからない料理を、僕は何年食べ続けてきたでしょう。あるいは僕はずっと、毒を食べ続けてきたのかもしれません」

「アロイス様!」

「僕はいずれ、こうなることがわかっていました。父も母も、誰も僕の変化を許しません。人を寄せることを許さず、前を向くことを許さず、停滞することのみを認めました。父の意にそわぬ僕には、価値がありませんから」

「なにを言ってらっしゃるんです!?」

 一人つぶやくアロイスの言葉が理解できない。カミラが制するように声を上げても、彼は言葉を止めなかった。

「この料理は両親の悪意であり、僕への戒めであり、保険でもあります。わからないのは僕が、どうしてまだ生きているのかということ」

 部屋の中。埃だろうか。魔力を帯びてぱちぱちとはじける。言葉と共に、アロイスの感情も揺れているのだ。

「どうして僕は飲み込めなかったのだろう。どうして吐き出してしまったのだろう。父も母も、そんなこと許すはずがないのに――――あの花を見たから、死にたくないと、無意識に思ってしまったんだ」

「アロイス様!」

 言葉は無意味だ。カミラはアロイスの背後に立つと、その肩を掴んだ。

 こんなときでも行儀よく持っていたナイフとフォークを、アロイスは取り落とす。かちゃりと落ちる音はどうでもいい。アロイスに触れた手のひらに、ばちりと痛みを伴う魔力を感じたのも、たいしたことではない。

「しっかりしてください! アロイス様!」

「しっかりしていますよ、カミラさん。僕はいつでも」

 アロイスは、カミラの力に抵抗することなく振り返った。

「いつでも、良き息子でした。あなたに会うまでは」

 両親の言いつけ通りに食事を取り、両親の望むままに肥え太り、いつ毒を混ぜてもわからない料理を食べ、毒を食べてもわからない舌に変え、いつでも殺せる準備を整えた。

 アロイスは文句ひとつ言わず、周囲の期待に応え続けた。死にたくなかったからではない。ただ、両親にとって『良き息子』であるために。

 なのに――――。

「でも、もう父上は僕を許さない。母上は僕を見ない。毒は人の手を介し、父の手で盛られたものだ。もう、僕は悪い息子です――――カミラさん」

 アロイスがカミラを見る。いつもの押し殺した、無表情めいた温和な顔つきとは違う。

 笑うように顔をゆがめ、赤い瞳が苦しげに光る。

 それは繊細で、危うく、傷つきやすい。今にも泣き出しそうな――――少年の顔だった。

「父上が、母上が、僕を見ているんです。僕を責める。死んだはずなのに――――確かに僕の手で、死んだはずなのに!」

 アロイスは、肩をつかむカミラの腕を、逆に握り返した。両手でカミラの腕を取り、必死の形相で訴える。

「良き領主であるように! 良き息子であるように! さもなければ死ねと! 僕の内から、今も僕を呪い続けるんだ!」

 魔力が渦を巻く。部屋にある陶器が一つ、ぱちんと音を立てて砕けた。どこか遠い音のようにそれを聞きながら、カミラはアロイスを見やる。


 ――――良い子すぎるんだわ。


 かつて、何度となくアロイスに抱いた印象を、カミラは思い出した。

 良い人でもなく、良い男でもなく、『良い子』と思った。その理由がわかった。

 アロイスはまだ、子供なのだ。両親に縛られ、自立を許されない少年のまま。父と母を恐れ、気に入られることを期待し、自分自身を築き上げる。わがままを知らない子供のまま、時が止まってしまっている。

 これが、アロイス・モンテナハトという男の正体。柔和な外観に隠した心の奥底。誰も彼も遠ざけて、触れさせようとしなかった、傷つきやすい真の姿だ。


 そしておそらくは、アロイス自身、自分の歪さに気づいている。

 彼はきっと、昔から聡い子供だったのだろう。聡いからこそ、失敗をしない。聡いからこそ、上手くやれてしまうからこそ、かえって重荷を背負ってしまったのだ。


「僕は変わりたかった」

 カミラの両腕をつかみながら、アロイスは訴えた。

「変わることが怖かった。でも、あなたがいれば変われると思った。なのに、くじけてしまった。僕は怖いんだ。裏切られることが、怖いんだ!」

「……裏切り?」

「父上が、母上が僕を搦めとる。虐げる。苦い記憶の中に見え隠れする、優しい母の記憶に期待する。苦しいだけなら良かったのに、おぼろげな記憶が僕を惑わす。本当は、愛してくれていたのではないかと!」

 両親の死は、アロイスに安堵をもたらした。その一方で、安堵を抱くこと自体がアロイスをさいなめた。かすかに残る、顔も思い出せない母の優しい記憶が、アロイスの冷徹さを責める。

 アロイスは期待する。期待するたび裏切られる。それでも縋るように、面影に期待する。母を求める幼児のように。

「この記憶はいったいなに。両親は、僕を愛したことなんてないのに。僕はいったいなんだ? どうしてこんな記憶がある?」

 失った記憶はアロイスを惑わせる。そこから、一歩も動けない。失った分だけ、アロイスは子供のまま。沼の底で溺れたままだ。

「…………助けてください」

 囁くように、アロイスは呟いた。アロイスの怯えをそのまま映すように、部屋の魔力が揺れる。震える。カミラの肌を撫でる。

「助けてください、カミラさん。僕を救ってください」

 親にすがるように、アロイスは訴えた。我慢強い子供の顔に、はじめての涙が浮かぶ。赤い目に溜め、こらえ、堪えきれずに流れ落ちる。

「僕は変わりたい。父と母に怯えずにすむように」

 涙が頬を伝う。それと同時に、カミラを掴む腕にも力がこもる。痛いくらいだ。

「逃れたい。乗り越えたい。心から願っているのに。勇気が出ない……!」

 アロイスの変化を、両親もモーントンの人々は許さない。毒を盛っても、変化を止めなければならない。変わるくらいなら死ねと。

 それでもこのままではいられない。アロイスは本心から変わりたい。恐れを乗り越えるだけの力が欲しい。

「カミラさん、どうか、僕を連れ出してください。ここから――――」

 助けて、という言葉は、頬を打つ乾いた音に消えた。

 アロイスはカミラから手を離し、自身の頬を押える。痛むのだろうか、微かに赤く色づいている。


「私はあなたの母親じゃないわ」


 痛むのは、カミラの手も同じだ。

 はじめて人を叩いた感触で、手のひらがじんじんした。


 渦巻く魔力は、衝撃に戸惑ったのか、傷ついたのか、めちゃくちゃに暴れまわる。

 ぱん、と簡素な音で皿が砕ける。砕けた破片が飛んで肌を裂いても、カミラは気にしなかった。

「優しい言葉なんてかけないわ。あなたを救ってもあげない。アロイス様、あなた、いまおいくつです?」

 アロイスは黙ってカミラを見やる。縋りついた母から手を払われたような、傷ついたような目つきだ。

「もうすぐ、二十四になるのでしょう。ご両親が亡くなって、九年近くすぎたんです。いい大人なんです。誰があなたを責めるというのですか」

 無言のアロイスの代わりに、魔力が感情を表す。彼らしくもなく、まるで制御できず、棚を倒し、カミラの肌を裂く。ばちばちばちばち。絶え間なく魔力のはじける音がする。

 そのことに、アロイス自身が怯えている。かつて、自分の両親が死んだときのことを思い出してしまっているのかもしれない。

「あなたの変化を咎める権利は、もう誰にもありません。代わりに、無条件に褒めたり慰めたりもしない。私に期待したって無駄だわ。私はあなたの母でもないし、母になる気もないんだもの」

「……カミラさん」

「苦しみは自分で乗り越えるものだし、自分を救うのは自分自身だわ。限界を見定めるのも自分。耐えられなくなる前に、逃げるのも自分の判断。それが大人っていうものよ!」

「僕は……」

「変わりたいなら、自分で変わるしかないの。痩せるのだってそうでしょう! 食事の量は自分で決めるの。運動は自分の意思でするもの。子供じゃないんだから!」

 カミラはそう言うと、アロイスの頬を両手で叩いた。叩くようにして、挟んだ。うつむきがちで弱気な顔を、そのまま前に向けるためだ。

「私は慰めないし、優しくもしないし、言われたくないだろうことも言うわ! それでもよければ、話くらい聞くわよ! ため込んでため込んで、誰にも話さないなんて薄情だわ、あなたの周りに、誰もいないってわけでもないのに!」

 カミラでなくとも、ギュンターやクラウスならば、アロイスの話を聞いてくれるだろう。一緒に考えてくれるし、力になろうとしてくれるはず。

 なのにアロイスは、自分から誰かの手を振り払い続けてきた。恐怖が、過去への罪悪感が、両親の呪縛が、アロイスを誰も彼もから遠ざけてきた。

 少し顔を上げればわかるはずのことなのに。アロイスの両親はもういない。彼の周りには、彼を見てくれる人がいる。アロイスが、自分で得てきた信頼だ。

「カミラさん」

 アロイスは、不意にカミラに腕を伸ばした。そうしながら、再び目に涙を浮かべる。こらえようもなく、零れ落ちる。しかし喘ぐように息を吐き、嗚咽を飲み込む。

「僕は変わりたい」

 唇を噛み、顔をゆがめながら、アロイスはつぶやいた。

「このままではいられない。僕は変わりたい。変わりたい。カミラさん」

 カミラの体を、アロイスはぐっと引き寄せる。背中に手を回し、きつく抱きしめられていることに、カミラは少し遅れて気が付いた。

「な、なんです」

 目を見開き、慌てて逃れようとしても、アロイスは離さない。唇を引き結び、涙を流すアロイスの顔がすぐ傍にある。

 九年。あるいはもっと長い間。アロイスの耐え続けてきた涙だ。

「カミラさん」

 アロイスはかたく目を閉じる。銀のまつ毛に涙がたまる。声を上げず、涙だけが零れる姿に、カミラはそれ以上、なにも言えなかった。

 黙って、カミラはアロイスの横顔を見る。抱きしめられていることさえも忘れて、息を呑んで見つめる。

 少年から大人へと変わるための涙は、透き通っていて、燭台の火にかすかにきらめく。まるで羽化をする蝶のようだった。

「カミラさん、傍にいてください。王都へ戻らないでください。僕の周りは危険が溢れています。ここは清い地ではありません。あなたを傷つけるものがたくさんあります。それでも」

 かすれた声で、アロイスは静かに、しかし確かに言った。

「傍にいてほしい。あなたの傍で、僕は変わりたい――――!」

 魔力は、いつの間にか収束していた。

 荒れ果てた過去の遺品だけが、部屋に痕跡を残す。


 なにかが抜け落ちたような空虚さの中。

 ただ、カミラを抱く力だけが、鮮明だった。

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