序章1
シュトルム伯爵家令嬢、カミラ・シュトルムは悪役である。
ゾンネリヒト王国の第二王子ユリアンと、男爵令嬢リーゼロッテ・エンデとの、身分違いの恋。王国中を沸かした運命の恋は、人々の記憶に新しい。
数々の苦難を乗り越えた二人を、国中が祝福した。物語よりも物語のような二人の恋が、人々の口に上らない日はない。
そんな二人の恋物語に欠かせないのが、カミラ・シュトルムであった。
カミラはユリアン王子に横恋慕し、二人の恋路を邪魔し、苦難を与えた張本人である。彼女は王子の想い人であるリーゼロッテに嫉妬し、苛め抜いてきたのだ。
その悪事は、枚挙にいとまがない。
カミラはリーゼロッテの醜聞を社交界に流した。
『リーゼロッテは王家の権力だけを求めて、ユリアン王子に近付いている。本当は男好きで、毎晩男の元を渡り歩いている』
そんな偽りを、まるで事実のように吹聴した。
あるいは、カミラは権力でリーゼロッテの周囲を脅し、社交界から孤立させた。
さらには荒くれ者たちを雇い、リーゼロッテを襲わせようとまでしたらしい。幸い、ユリアン王子が助けに入ったために事なきを得たが、リーゼロッテはショックを受け、何日も寝込んでしまったらしい。
それ幸いと、カミラは伯爵家の力で、強引にユリアン王子との婚約を結ぼうとした。リーゼロッテの醜聞を盾に、彼女は王家にふさわしくない。清廉潔白な自分こそが相応しいと、社交界から第一王子エッカルト、さらには国王陛下までもを丸め込み、この婚約が成り立つ直前までこぎつけた。
だが、そうまでしてもユリアン王子とリーゼロッテの仲は引き裂けなかった。
ユリアン王子とカミラの婚約が成り立とうとするまさにその時、ユリアン王子自身によって、カミラの罪がすべて白日の下にさらされたのだ。
カミラが流したリーゼロッテのおぞましい醜聞は、すべてカミラ自身のこと。
清廉潔白などとんでもない、カミラこそが穢れた女であること。
リーゼロッテを執拗にいじめ、悪漢に襲わせるなどという、もはや人として許されない行為をしでかしたこと。
ユリアン王子の告げた真実に、国王陛下は目を覚まし、カミラとの婚約を取りやめた。そして代わりに、リーゼロッテをユリアン王子の婚約者として認めたのだ。
一方のカミラは、罪のないリーゼロッテを貶めたことで、王家の怒りを買うこととなった。父であるシュトルム伯爵もカミラを見限り、彼女はあわや着の身着のまま、国外追放となるところだった。
だが、心優しいリーゼロッテは、カミラの行為を咎めなかった。
「同じ恋に落ちた者ですもの。カミラ様のお気持ちもわかりますわ」
リーゼロッテの優しさに心打たれ、ユリアン王子はカミラの国外追放を取りやめた。
数多の罪も問うことをやめ、王子がカミラに課した罰はただ一つ。
王子の決めた者の元へと嫁ぎ、もう二度と二人の前に現れないことだった。
王子が定めたカミラの結婚相手は、アロイス・モンテナハト公爵。
王家の分家筋であり、王国の北端に位置するモーントン領を代々治める名家とあれば、シュトルム伯爵家の結婚相手としては申し分ない。いや、いっそ格上すぎる相手だ。
だが、これは罰。アロイス・モンテナハトはただ身分の高い、裕福な男ではない。
社交界で噂される、彼の通り名は『沼地のヒキガエル』。
沼地は、瘴気に包まれた湿地帯であるモーントン領を示す。ヒキガエルは、モンテナハト卿の容姿のことだ。
ぶくぶくに太った巨大な体。吹き出物だらけの肌は醜く、太って輪郭の崩れた顔とあわせてヒキガエルのように見えるのだ。体の重たさからか、いつも汗にまみれ、じっとりと湿っているところも、この名前の所以である。
性格は暗く、誰とも言葉を交わそうとはしない。王家の重要な式典の時のみ、彼は沼地から上がり、この王都まで赴く。その際も誰もが遠巻きから眺めるのみだった。
遠目からでも、彼の異常さは際立っていた。大の大人の三倍はあろう横幅。沼地に浸ったような、常に湿った灰色の長髪。その髪の合間からのぞく彼の目は、まるで感情のないカエルのよう。魔力を宿した赤い瞳は、見つめると心を抜かれてしまうと言われ、誰も目を合わせようとはしなかった。
そんなモンテナハト卿は、今年で二十三になる。そろそろ結婚を考えるべき年だ。社交界では、いったい誰が彼の結婚相手となってしまうのか。王宮の幽霊に並ぶ『怖い話』として、貴族の令嬢たちの間でささやかれていた。
要は、厄介者をまとめて処理したのだ。
ユリアン王子の決定を、人々は歓迎した。
不気味で醜いモンテナハト卿と、貴族の令嬢たちは結婚をせずに済む。権力をかさに着て、リーゼロッテをえげつないほどいじめてきたカミラもまた、悪役にふさわしい末路を辿った。
王都の新聞各社は、この恋物語の文句なしの結末こぞって書き連ね、号外を飛ばしたと言う。