第五章断章:逃避行
ブリュンヒルデ王国王都ヒルデガルダ。王国の中枢であり、上級から下級まで多くの貴族がこの都市に住んでいる。ソフィーはこのヒルデガルダに住む下級貴族、ヴィリディアリーフ家の末娘として生まれた。
ヴィリディアリーフ家は貴族の家系ではあるものの他家の貴族からすら鼻で笑われる程の貧乏貴族である。
家族構成は父と母、兄が二人と姉が一人。父サルデスと二人の兄のマルクとダヴィデは正に平々凡々な人間で末端の役人として真面目に働いてはいるが、ヴィリディアリーフ家が抱える多額の借金の利息を払うので精一杯と言う程の稼ぎしか無かった。必要な教育は両親や兄姉達によってしっかりとされていた。
ソフィーが十五歳の誕生日を迎え、成人と認められてから数日、三つ上の姉マリアの結婚が決まった。相手は上級貴族であるイエローサン家の当主、バルバロッサ・イエローサン、多くの側室を持つ男で年齢は五十を超える。気に入った女性を次から次に側室に迎える好色家で有名であり、姉のマリアもその好色家の目に留まってしまったのだ。
姉のマリアは最初こそバルバロッサとの結婚を嫌がってはいたが、ある日を境に覚悟を決めたかのように結婚について納得する様になった。
後にソフィーが知った事実ではあるがマリアがイエローサン家の側室として嫁ぐにあたり、ヴィリディアリーフ家の抱える莫大な借金が完済され、更にヴィリディアリーフ家の位を上げられる事を約束されていた。
マリアは自分一人が犠牲になれば家族全員が幸せになれる、そうと信じ、意を決したのだ。
実際にマリアの結婚後、イエローサン家との約束は滞りなく履行され、方々への借金は全て完済され、イエローサン家の後押しにより、ヴィリディアリーフ家も中級貴族に引き上げられる。父達も末端の役人から少数の役人を従える中間管理職へと昇進していた。
姉のマリアがイエローサン家に嫁いだ事でヴィリディアリーフ家の生活は大きく変わる。住む家は屋敷と呼べる立派なものになり、粗末な黒パンとスープばかりだった食卓には肉も並ぶ様になった。
しかし、仲の良かった姉はもう家にはいない。いつしか両親や兄達は金の事ばかりを話す様になった。
そんなある日、ソフィーが市街を歩いていると驚くべき光景を目にする。
イエローサン家の当主、バルバロッサが側室達を連れて市街を散歩している所に遭遇した。
バルバロッサに付き従う側室達の中には勿論、姉のマリアの姿もあった。
煌びやかな服や装飾品を身につけた姉の姿はまるで小国の王妃の様に映る。しかし、その顔を見ると光を失った瞳と虚ろな表情を浮かべている。他の側室達も同様に生気を失った屍人の様な表情である。
バルバロッサが側室の一人に声をかけると側室の一人は表情を変える事なく、生気の無い声でバルバロッサへの愛を述べた。
ソフィーはその光景に衝撃を受け、逃げる様に屋敷へと引き返した。
屋敷でソフィーを待っていたのは家族達だ。家族達はソフィーに縁談の話を持ちかける。しかし変わり果てた姉の姿を見たソフィーはその話を聞くこと無く自室に閉じこもった。
ソフィーは一晩中考えていた。姉は一人犠牲になり家族を助ける事を選んだ。しかし自分達だけがその幸せを享受する事で家族達もまた変わり果ててしまった。
おそらく縁談の話も政略的なものだろう。自分もその生贄に捧げられる事になる。
家族全員の幸せを願って一人犠牲になった姉の願いは遂に叶う事は無かった。貧しくも暖かな家庭はもうここにはない。家は富めども心は貧しく冷たいものとなってしまった。
ソフィーは後日、家族に改めて縁談について話を聞くことにした。相手はやはり上級貴族であるパープルストーン家の次期当主、ビスマルク・パープルストーン。この男も何かと黒い噂の絶えない男だが誰一人としてこの男の尻尾を掴めた者はいない。
ソフィーはビスマルクの名前を聞いた瞬間に確信する。やはり私も生贄なのだと。
ソフィーは表向きには前向きな返事を返し、一旦話を終える。そしてソフィーは行動を始めた。
王都を離れる準備、最終的には国を出る算段を立てる。一人では不可能だ。
ソフィーは幼馴染のミハイルの元を訪ね、その事について話す。気弱なミハイルは話を聞いた当初は驚くばかりでやめようと言うが、ソフィーの真剣な表情を見ると次第に自らもその計画を手伝う様になった。
ミハイルはブリュンヒルデ王家に仕える宮廷魔術師に仕える下男の息子であり、彼もまた敷かれたレールの上を生きる事を強いられていた。彼の弱気な性格はそれも仕方ないと考え、諦観していたが、ソフィーの真剣な相談を受け、少ない勇気を振り絞る事を決めた。何よりミハイルは幼い頃からの遊び相手だった彼女に恋慕を抱いていた。故に困っている彼女を放っておく事など考えられ無かった。
ミハイルはソフィーから脱走の計画を聞き、東奔西走して計画の準備を進める。父の手伝いの空き時間を見つけては脱走計画の準備を進めていく。上位の貴族からの縁談は拒否などできない。猶予はそれ程長くはなかった。
ミハイルは必要な荷物や道具、脱走時に必要な足を片っ端から手配する。元々弱気な性格な彼も愛の前では頼りになる男になるのだ。
十数日の間にミハイルの尽力の甲斐あって、計画の準備が整った。実行は今夜、結婚の儀の前夜だ。
ヴィリディアリーフ家とパープルストーン家の間で結婚の前祝いという事で祝宴が催された。
これまで計画が露呈しない様にソフィーは縁談に対して一つも不満を漏らす事なく明るく振舞っていた。
ソフィーの逃走計画は誰にも疑われる事なく順調に運んでいた。
ソフィーは自ら厨房に入り、宴会の料理の手伝いに入る。この事は両家とも、気の利いた花嫁だと考え、誰も疑う事は無かった。
夜が更け祝宴が始まり、一刻も経った頃、ソフィーと屋敷の門を警備する衛兵を除き、全員が寝静まっていた。
ソフィーは料理の手伝いをする振りをしながら、睡眠薬を自分の料理以外全てに仕込んでいたのだ。
ソフィーは全員が眠り落ちたのを確認すると、すぐに用意されていた三階の自室に戻って身につけていたドレスを乱雑に脱ぎ捨てて用意していた旅装に着替える。
窓を開けるとパープルストーン家の敷地から少し離れた路地の暗がりに小さな炎が明滅するのが見える。ミハイルからの準備が出来ているとの合図だ。
ソフィーは窓を全開にして壁際へと下がり、一瞬目を瞑って唾を飲む。この部屋は三階、着地に失敗すればよくて大怪我、最悪死ぬ事だって考えられる。だが、このままパープルストーン家との結婚が進んでしまえば自らの行く末など知れている。未来などはない。死んでいるも同じだ。
姉の願った幸せをせめて自分は掴んでみせる。その為に今、自由を掴む為に跳ぶのだ。
ソフィーは勢いよく窓に向けて走り出した。勢いはそのまま、窓を蹴り出し、夜の闇に飛び込む。ソフィーが飛び出した先、そこにはパープルストーン家の誇る立派な生垣が敷かれている。
どうやら助走は足りていたらしく、体良く立派な生垣へと届き、ソフィーは大の字で生垣へと突っ込んだ。
着地は成功した。少し枝葉で切り傷はついたが大きな怪我はなく、足を捻った様子もない。ソフィーはミハイルが用意していた塀から垂らされたロープに飛びつき、一気に塀を駆け上がった。
その時、屋敷からどよめきが聞こえてくる。どうやらあまりに静かになり、衛兵が不審に思って宴会の会場に踏み込んだのだろう。
ソフィーはパープルストーン家の屋敷から聞こえるどよめきと衛兵達が慌てふためき鎧が擦れ合う音を尻目に塀から颯爽と飛び降り、ミハイルの元へと走る。
ミハイルは裏通りに裏の貨物魔獣車を手引きしていた。ソフィーとミハイルは騒ぎが大きくなる前に急いで魔獣車に乗り込み、御者に出発を知らせて積荷の大きな革袋に潜り込んだ。
門に辿り着いたのか魔獣車が動きを止める。まだ門にまでは知らせが届いていないようだ。
御者と門衛が二、三やり取りを済ませると魔獣車は再び進み出す。
王都の門を出た魔獣車は速度を上げ、一気に王都から離れていく。積荷の革袋から出たソフィーは脱走に成功した事に胸を撫で下ろすが、ミハイルはソフィーの肩を叩き、首を振る。
ミハイルの話に寄ると、このまま馬車に残れば王都周辺を縄張りとする盗賊達の元へと送り届けられるとの事だ。
ソフィーはミハイルに対して怒りを覚えるが口に出したい怒りの言葉をぐっと飲み込んだ。
ミハイルの説明ではパープルストーン家に嫁ぐ予定の花嫁を運ぶと言えば周辺の盗賊は誰も首を縦に振ることは無い。しかし、奴隷を運ぶと言うのなら話は別だ。況してや若くて美しい女性がただで手に入れられるのならば涎を垂らして飛びついてくる。
ソフィーはミハイルの説明に納得し、握りしめた拳を解く。ソフィーはそのまま馬車に揺られながら思考を巡らせた。
最早乗りかかった船だ。今更引き返すことは出来ない。ソフィーはミハイルに覚悟を決めるように告げると予め用意していた荷物が詰まった大きなバックパックを抱える。
闇夜の中、馬車は猛烈な勢いで街道を駆け抜けており、そのまま馬車から飛び降りればただでは済まないだろう。
勢いよく流れていく薄暗い中、流れる様に見える石畳の模様をソフィーとミハイルの二人は見つめていた。無意識の内に二人は唾を飲む。やがて二人はお互いに顔を見合わせて同時に頷き、抱える荷物をクッションにして勢い良く走る馬車からソフィーにとっては希望が待ち受ける外の世界、ミハイルにとっては不安渦巻く闇の中へと飛び込んでいった。
ーー音も無く地面を転がり立ち上がった二人が見つめる暗い街道の先。猛スピードで駆け抜ける馬車はあっと言う間に闇夜の漆黒の中に消えていった。
これにて第五章完結です。次回の投稿から第六章に入ります。




