第三十二話:アーリアル伯の書庫
一夜を明かし、俺とクリスは昨日バレンティンに紹介されたアーリアル伯爵の屋敷を訪れていた。
広い庭園の入り口に一人、衛兵が暇そうに立ち尽くしている。
「ああ、君がブルームーン守護騎士隊長の話していたセオドアくんとクリスティンちゃんだねぇ、伯爵から許可は出ているから入ってもらって構わないよぉ~…。ふぁあ…」
兵士が眠たげな声で屋敷へ案内する。
屋敷に入るとそこはロビーではなく最早図書館で呼んで差し支えない程の書架で埋め尽くされていた。
奥の机では一人の少女が本に囲まれながら読書に耽っている。少女は伸び切ったボサボサの髪にとても貴族とは思えぬ汚れたローブを身に纏っている。一瞬アーリアル伯爵とは思えなかったが、入り口の衛兵の他には使用人は一切居なかった、というのと、伯爵が女性という点からこの少女がその伯爵なのだろうと確信した。
「初めまして、僕はセオドア・ホワイトロックと申します。こちらは妹のクリスティン。書庫の利用の許可を頂き感謝申し上げます」
俺が挨拶をすると少女は一瞬目線をこちらに向け、また直ぐに読書を再開する。
「読みたそうな本はそこに用意してる…勝手に読んで…」
こちらに一切目線を向けず本を捲りながら無愛想な態度でそう呟いたのが聞こえた。
置かれていたのは十冊程の書物、背表紙を見ると辞典や簡単な伝記などがピックアップされていた。
無論、これはアーリアル伯の気遣いではなく、早く済ませてくれという無言のアピールだ。先程の態度からしても、そうとしか思えなかった。
俺達は別室に机を見つけ早速本を読み漁る。まずはガルムス大陸に住むと言われる獣人達の言語の獣人語だ。隣国であるマクシミリアン帝国にも多数のガルムス大陸から移り住んだ獣人がいるらしいが、こちらは人語を覚えてアトラシア大陸へと移り住んでいる為、まずこちらで獣人語を聞くことはないが、大魔大陸まで行く場合、必ず立ち寄る地となる。
辞典を片手に関連する伝記を読む。辞典には丁寧にも発音法まで記述されており、クリスと音読しながら伝記を読み進めていった。
「ここのセリフは…『お前、俺、噛み付く。』…こうか?」
「兄様、違います。『俺様、お前、丸かじり』です」
…あまり違いがわからん。
勉強を始めて三刻程が経ち、休憩を兼ね昼食に出かける。一旦退出する時にアーリアル伯に声をかけるがやはり彼女は反応せず、読書に没頭していた。
昼食は貴族街ではなく、中央街に戻ってから取ることにした。貴族街にも食事が取れる場所はあることはあるが、値段が非常に高く、一食銀貨四枚なんて店もある程だ。
以前泊まっていた木の葉亭ならば正規価格でも朝夕食事ありで三泊は出来る計算になる。
持ち合わせがないわけではないが、今後の旅の資金だ。無駄遣いする訳にはいかない。
木の葉亭の食堂で食事を済ませ、再びアーリアル伯の屋敷に戻る。庭園では一人で紅茶と焼き菓子を無表情で愉しみながら読書に耽るアーリアル伯の姿があった。
彼女は一瞬だけ視線をこちらに向けるが直ぐに本の方に視線が戻る。
俺達は無言で礼をし、また勉強部屋へと戻った。
お互い発音を確認しながら伝記を読み解いて行く、気がつけば夕方だ。
俺達はアーリアル伯のいるエントランスホール…であろう場所に借りた本を運ぶ。
「今日はありがとうございました、また明日、本を読ませて頂いてもよろしいでしょうか?」
「本はそこに置いてていいわ…明日もまた来るのでしょう…?」
目線は本を向いたまま、さも俺達には興味がないかの様に抑揚のない無機質な声でアーリアル伯が答えた。
俺達は一礼しアーリアル伯の屋敷を後にした。
アンリエッタの屋敷に戻るとジャックとアンリエッタは既に戻っており酒を煽っていた。
「よぉ、先に飲ってるぜ」
「今日は特にめぼしい情報はありませんでしたわ」
二人には迷宮の情報と冒険者の情報を集める様に頼んでいたが今日はボウズのようだ。
ジャックが葡萄酒の瓶から口を離し、息を吐く。
「で、そっちの首尾はどうだ?」
「上々ですよ、竜人語以外は全部ありました」
アーリアル伯が用意していた本は獣人語と共魔族語の書物だ。竜人語はそもそも本自体が出回っていない為アーリアル伯すら持っていないのだろう。
「兄様、竜人語なら少し読めますよ?」
「…いつの間に勉強したんだ?」
正に寝耳に水だ。
「村にいた時にガスターさんに少し教えてもらいましたので。村を出る時に頂いた魔導書も竜人語で書かれてて、漸く雷の大魔術の部分だけ読める様になったんです。他の属性もある程度は読めるんですが、まだもう少し掛かりそうです」
元々我が家の教育方針は長所を伸ばす、だ。恐らく母がガスターに頼んで教えて貰っていたのだろう。
「なぁ、もしかしたらアーリアル伯に頼んだら翻訳できるんじゃないか?」
「!!」
俺がそう言うとクリスはハッ、としたような表情に変わる。あの蔵書量だ、翻訳までは出来なかったとしても、何らかの手掛かりぐらいは得られるかもしれない。
その後、三月程俺達はアーリアル伯の屋敷に通い詰め、獣人語と共魔族語を身につけた。またその合間で様々な本にも触れることにした。気がつけば季節はもう秋だ。
最後に手にとって読んでいた伝記を読み終え、アーリアル伯に感謝を述べる。
「三月の間、お世話になりました。お陰で獣人語と共魔族語を一通り覚えられました。感謝致します」
相変わらず目線は本を向いたまま。微かに口を開き「そう」とだけ告げる。
「アーリアル伯爵、もし私達にできる事であれば何なりとお申し付けください。きっと恩返しさせて頂きます」
クリスがそう言うと珍しくアーリアル伯は本を読むのを止め、口を開く。
「そうね…世界を旅するというのなら、もし珍しい本でも見つけたらこの街をまた訪れた時にでも譲って貰えると嬉しいかしら…」
待っていた言葉だ、今こそクリスの魔導書を見せる絶好の機会だ。
「わかりました、実は一冊だけ読み切れない古い魔導書がありまして、譲れるものではないですが、これでしたらアーリアル伯爵ももしかしたら一度も目にしたことのない書物かも知れません」
そう言ってクリスに魔導書を取り出してもらう。
古ぼけた魔導書をアーリアル伯が見ると今までとは全く違う反応を見せた。
「これは…!竜人族の魔導書!少し読ませていただいてもよろしいかしら…!」
クリスが魔導書を差し出すとアーリアル伯は奪い取る様に受け取り、頁を捲り出した。
「これは…なるほど…ふんふん…興味深い…これは興味深いわ!」
アーリアル伯は俺達をそっちのけで物凄い速度で頁を捲る。全てを読めているのかは定かではないが、大まかには理解して読んでいるらしく、ブツブツと何かを呟きながら書を読み進めている。
そして突然本を閉じ、此方に振り向いた。
「貴方達、この本を二日…いや、一日貸して頂けるかしら?いや、寧ろお金でもなんでも払うから一日だけ貸して頂戴!」
余程、興味を持ったのか今までに見たことのない表情、いや剣幕でアーリアル伯が迫る。しかしこの本を一日借りてどうしようというのだろうか。少なくとも悪い条件ではないので本を条件付きで貸すことにしよう。この人に限って本を破ったりはしないだろう。
「解りました、ですが条件を二つ程、着けても宜しいでしょうか?」
「何をお望みかしら?」
「いえ、簡単なことです。まず、本を損傷させないこと」
「ええ勿論よ、そもそもこんな書物、損傷させたら大変だわ」
「そして、こちらは可能であればで構いません、この書物の翻訳をして頂きたい」
二本の指を突き出してアーリアル伯の出方を伺う。一つ目は問題ないだろう。問題は二つ目だ。
これが出来ればクリスは他の大魔術の早期習得が見込めるだろう。それはクリス自身が望んでいる。
「お安い御用よ、明日のお昼には済ませるわ、楽しみにしていて頂戴!」
快諾だった。語学勉強のついででまさかこんなおまけが着いてくるとは思わなかった。
クリスも俺の両手を握って跳ねて喜んでいる。クリスがこんな風にはしゃいでいるのはいつぶりぐらいだろうか…。
俺達は「ではまた明日、陽の六刻過ぎに受け取りに行きます」と言って、屋敷を後にした。
アーリアル伯はいつものように反応はなく、本から目線を放さないが、目を見開いて読む姿は初めてだ。余程興味深い魔導書だったのだろう。
「これであの書の大魔術を全て習得できそうですね、兄様!」
「ああ、でも大魔術…この間の雷神の鉄杭のような局所的な使い方が出来る物ばかりじゃないんだろう?」
嬉しそうに声を掛けてくるクリスに疑問を投げかける。それを聞いたクリスの表情は一変して神妙な表情に変わる。
「はい、物によっては災害並の効果を持った物もあります…なので使い方は限られますし、使い所を間違えば…」
まぁそうだろう。少なくとも雷神の鉄杭も局所的とは言え、地面を大きく抉り、対象を一瞬で消し炭に帰してしまったのだから。
「使い所はクリスに任せるけど、乱用はしないようにな」
軽く釘を刺しておく。クリスもそこまで愚かではないだろうが。クリスも「はい」と生真面目にそう返した。
翌日、昼を過ぎ、アーリアル伯の屋敷に訪れた。扉を開け、書庫となったエントランスホールに入るとそこには昨日渡した書物と何十枚の羊皮紙の束が二つ置かれており、これまでとても貴族とは思えない姿をしていた少女が、綺羅びやかなドレスに腰まで届くであろう艶やかなストレートロングにセットされた髪で現れた。
「…これでも、伯爵の爵位を持っています。…与えた恩をそれ以上にして返した方には相応の礼を尽くすのが貴族です」
俺達はアーリアル伯の大きな変身に未だに面食らっていた。
「本は…お返しします。それとこれが翻訳したものです…」
本は綺麗なまま、さらに高級感のある羊皮紙の束を受け取る。少なくともこの魔導書はちょっとした図鑑程度の厚みはある。あれを一晩で訳したのか。そう考えるとこの少女も只者ではないと改めて実感する。
しかし、もう一つの羊皮紙の束は何だろうか。どうしても気になった俺は聞かずにはいられなかった。
「あの…あそこの羊皮紙の束は…?」
「…勝手ながら、その魔導書の写しです。「写してはいけない」とは言われておりませんよね…?」
伯爵である少女はオドオドとした様子で俺に聞き返す。
この少女、只者じゃないどころかまさに化物だった。翻訳どころか写本まで済ませていたのだ。
「い…いえ、大丈夫です。原本が問題なければ、構いませんよ…」
流石のクリスも動揺を隠せないようだ。クリスの返答を聞き、アーリアル伯はほっと胸を撫で下ろす。
「いい本を読ませて頂きました。また旅の中で珍しい本を見つけられたら読ませて下さいね」
アーリアル伯はドレスの裾を指先で摘み上げ、軽く頭を下げる。女性貴族の礼をして俺達を送り出す。俺達も同様に貴族の礼で返し、屋敷を後にした。
結局本は無事戻ってきた上に翻訳までされ、さらに少々…とは言い難い金を握らされた。
渡された袋には金貨が十枚、白金貨が四枚が入っていた。…それだけ貴重な書物だったのだろう。
何はともあれ、魔導書が翻訳され、資金にも余裕が出来た。あとは迷宮探索に同行出来うる人物を探すだけだ。俺達は土産話を手にアンリエッタの屋敷へと戻る。




