―序章―
初めましての方、初めまして。
初めてではない方、今後もよろしくお願いいたします。
深く暗い森の中、空には赤く歪んだ月が浮かび、辺りは静寂に包まれている。
その静寂の中を駆け抜ける一人の少年が居た。
その少年は、よく見れば……人ではない、何かに追いかけられている。
呼吸を粗くしたまま、それでもなお少年は駆ける。
そこで、立ち止まってしまえば……きっと命が尽きてしまうと知っているから。
……だが、非常に残酷な事だが、人間には誰にだって体力には限界がある。
そして、その少年だって例外にはもれない。
『それが、人である限り』
徐々に、体に疲労がたまり……歩みを止める。
後ろを振り返ればいつの間にか……その少年を追っていた何かは居なくなっていた。
「ぜぇ……ぜぇ……、ふぅ……撒いたの、か?」
もう限界だ。そういう風に呟いた少年の声は、暗い闇へと吸い込まれる。
汗にまみれ、肌にぴったりとひっついたシャツを気持ち悪いとは思いながらも、気は抜かずに周囲を警戒する。
一分……二分……
ゆっくりと深呼吸をしながら少年は、息を整えていった。
「よし、完全に撒いただろ……これは!」
ゆっくりと立ち上がり周囲を見渡す。
「しかし、どこだここは……こんな場所、僕は知らないぞ。だが、まぁとりあえずは今わかっている事が一つだけある。此処は危険だ」
立ち止まるわけにはいかない……。
そうして少年は、右も左もわからないまま、不気味な月明りだけが包む暗い森の中を歩き始める。
……しばらくして、視界に森の中では決してないであろう光が眼前に見えるようになってきた。
「あれは、町か……?」
よかった……そう安堵した瞬間。
視界は暗転する。
「……は?」
気づけば、自身の体は宙に浮き、町を見据えていたはずの視界は……空に輝く歪んだ月を捉えていた。
――その間、わずか数秒。
激しい衝撃とともに……体の、肺の中に溜まっていた酸素が一気に放出される。
「カハッ……」
声にならない声とともに、その少年はのたうち回る。
「何が起きたっ!? 」
パニック寸前となったままぐるぐると思考を加速させていく。
当然……今起きたことは冷静に考えること等できるはずもなく。
アドレナリンが過剰に分泌されている為か、痛みは全く感じない。
だが、手足は痺れ動きそうにない。
頭も強く打っているのか……視界も定まらないまま、周囲の状況を探る。
平坦な道の中、折れている木々等もなく……決してどこかで足を躓かせた。そういうわけではないらしい。
じゃぁ、どうして……徐々に思考も冷静さを取り戻していく。
目をすっと閉じ、それから開ける。まだ少しだけぼやけたままの視界で空を見る。
そこには、やはり赤く歪んだ月が、二重……三重に重なり、こちらを見下ろしている。
「……くっそ。薄気味悪いんだよ……僕の事をあざ笑ってるようでさ。」
凄く不愉快だ……。吐き捨てる様に僕は呟く。
もう一度、目を開ける。
すると、赤く歪んだ月……のほかにこちらの顔を覗き込む。
赤く鋭く発光する目と、目が合う。
「ほう……意識があるのか。運が悪いな。」
その得体の知れない何かは、いつの間にか僕の傍にきており、言葉を紡ぐ。
「……お前は、何者なんだ?」
状況は絶望的、何があっても反撃はできない。
だからこそなのか、逆に冷静に尋ねることができた。
その言葉に、得体の知れない何かは笑う。
「ハハハハハハッ!! この状況で、私が何者かを訊ねるか。貴様面白いな。」
そうして、そいつは何をするでもなく、そのまま考え込んでいる。
(これなら、一矢報いることもできるだろう……動けよ僕の体!!)
必死にもがいてはみるものの、指一つ動くことはない。
「ほう、その体でなお動こうとするか。しかし、いやはや……残念だ。今の貴様には指一本動かすことはできないだろう」
……そして、それを知らぬまま貴様はここで果てるのだ。
こちらを見る、ソイツの顔は至極、楽しそうに笑っていた。
「そうだ、今の私は気分がいい。最高にな!! だから一つだけ貴様に答えてやろう。私が何者かと、貴様は聞いたな?私は、貴様の命を奪うものだよ」
その言葉とともに、僕の胸に……ソイツの腕が侵入する。
「ふーむ……このまま楽に殺してもいいが、そいつはつまらん。特に理由はないが、ここなら助けはきまい。この私と出会ったのが運の尽きだったな……ゆっくりと血が抜けていく感覚を楽しみながら果てていけ」
その言葉とともに、ソイツは腕を抜く。
……一度だけ僕の、体はビクンとはね……力を失くす。
視界も徐々に、赤く染まっていく。
赤く……紅く……朱く……アカク。
「……くっそこんな所で。僕は、あの場所へただ帰りたかっただけなんだ……あの日常へ。なのに……なんだよこれは!! こんな場所で……誰にも知られずに、僕は死ぬのか……」
言葉は徐々に力を失くしていく。
体が熱を失くし、冷えていく。胸を起点に流れ出していく血が暖かく感じる。
足の感覚が、手の感覚が……徐々に消え去っていく。
次いで、徐々に思考ができなくなっていく……頭に靄がかかったように。
そして、最後にゆっくりと視界が黒く塗りつぶされていく……
「あぁ……寒い……な」
それ以降、その少年が言葉を発することはなかった。
朽ちていく少年の横たわる地面は……紅一色に染まっていた。