005 戦闘訓練
夕方からは戦闘訓練だ。
ひとまず指示された訓練場へと向かう。
食堂の裏手が訓練場になっているとのこと。
歩きながらお腹に手を当ててみる。お昼にも思ったが、ぜんぜんお腹へらない。ホントに一日もちそうな。
一日一食というのが残念でならない。食事の楽しみが三分の一じゃないか。
うーん。三食摂ったらどうなるんだろう。
すんげー太るのかな。それとも常に「もう食えない」満腹状態なのか。
腹いっぱいまでメシ食えることがあったらそれもわかるかな。朝飯のあの量じゃちょっともの足りないし。
ご飯について考えていたらどうやら訓練場に着いた。
まぁ朝飯を思い出す限りあんまりおいしいものでもなかったので、ご飯については頭の隅っこへ追いやることにする。
――訓練場はかなり広かった。
ぱっと見てサッカーくらいならできそうな広さがある。
訓練場の端なのか、向こう側はうっそうと茂る森になっているようだ。
森のすぐ上方には傾いてきた夕日が見える。後数時間で日が沈みそうだが、この訓練っていつまでやるんだろうか。
ブラック企業も真っ青になりそうな就業時間を想像して不安になる。
訓練場は長方形になっており、長辺側が食堂の建物で、左側も建物で遮られている。
そして残り二辺が森だ。
そんな森の前に、一人の男と大きな獣が一匹いた。
細身で長身、短髪水色頭だった。獣は犬っぽいけれど、目線が自分より上にある。隣の男の胸あたりだろうか。
うーん。襲ってきたりはしないだろうけど、やっぱり自分より大きい獣というのは威圧感があるな。
顔が引きつっていることを自覚しながらも近づいていく。
ここまで来てやっと気づいたのだが、よく考えると裸足なんだよね。
訓練とか走り回ったりすることもあるだろうし、靴がないと辛いところだ。
「こんにちわ。ここで戦闘訓練をすると聞いてきたんですけど……」
まずは挨拶からだ。基本だからね。
「ふん、やっと来たか」
「……アフィシアです。よろしくお願いします」
自分の名前に慣れるためにも自己紹介をしておく。
「シリウスだ。――まったく、なんで一研究員のオレが戦闘訓練なんぞ……」
後半のセリフは、額を手で押さえながら俯き加減だったので聞こえなかったが、なんとなく不機嫌そうなのはわかった。
「あー、お前も捨て子らしいな。まぁでも、ここで拾われたってんなら運がいいほうだ。
普通なら魔物に食われて終わりだからな」
この人は俺をホムンクルスと知らない人か。
しかし……、
「魔物……、ですか」
ちらりと横の獣に視線を送る。
この世界に魔物がいるということも驚きではあるが、もしかして隣の犬は魔物なのではないだろうか。
いや、ここにいるということはどっちかというとホムンクルスなのかな。
「ん? あぁ、こいつはホムンクルスだ。命令しない限りとって食ったりしないから安心しな」
思わず凍りつく。
「あははは……」
そして乾いた笑いが漏れる。
命令したら食われるのかとか考えてしまう。
現代日本では身近ではありえなかった存在である。
この状況は日本で言うところの、目の前に躾けられたライオンがいるようなものだろうか。
「まぁそれはともかく。拾われたからにはしっかり役に立てるようにならないとな。働かざるものなんとやらだ」
最初に言われていたことなのでわかってはいたが、どうやら子どもも働かされる世界のようだ。
しかし戦闘訓練って何するんだろうか。こんな小さい子どもで戦えるとも思えないが。
「ここの方針なんだがな、基本的には一通りすべての職業に通じる教育や訓練を試してみて、才能があるかを確かめるそうだ。
最終的には適正のある研究施設で働くことになるんじゃねーかな」
うわっ、なんつーかエスカレーター方式な学校みたいな感じか?
捨て子にそこまで教育費かけるもんなのかね。
ある意味至れり尽くせりと言えなくもない。
「と言っても、ほとんどが使用人止まりだけどな。たまに研究員助手にまでなるやつもいるから侮れん。
何故だかはわからんが、人材として捨て子は悪くないんだよな」
幼少期のスポンジのように何でも吸収するやわらかい頭のことを言っているんだろうか。
日本では四則演算など小学校低学年で習うもんだが、この世界ではどうなんだろう。
この研究室のレベルはわからないが、今まで見てきた自分の部屋や食堂の設備などを見るに、日本でいうところの科学技術といったものには一切無縁のように見える。
識字率も低く、四則演算までできればすぐに仕事にありつけるような世界なんだろうか。
地球の歴史でもそういう時代があったらしいし。
「っと、紹介が中途半端だったな。こいつはレオンってんだ。
――お前の訓練相手になるからよろしくな」
獣の頭をなでながら恐ろしいことを口にするシリウス。
「えっ?」
犬――というかもう狼にしか見えなくなったレオンは目を見開いてこちらを見つめてくる。
なんか怖い。
こっちはもう頭の中が真っ白である。訓練と聞いていたので武術的な何かを想像していたのだが、獣が相手とはこれいかに。
「……一体何をするんでしょうか」
掠れ気味の声でなんとか疑問を呈す。
「何、戦闘訓練と言っても体力もない体格の小さい子ども相手だと効率が悪いからな。
まずは鬼ごっこやかくれんぼで遊んでもらおうか」
いや狼と鬼ごっことか体力バリバリ必要な気がするんだが。
『遊び』という言葉には騙されたりはしないぞ。
「あと、遊びの範囲はこの訓練場内全部なのでね。訓練場は塀で囲まれているからわかりやすいと思う」
なんだって? じゃあ目の前にある森は。
「もちろんこの森の中も訓練場に含まれる」
まじっすか。もうすぐ日が暮れますよ。いやまぁ訓練場内の森ってことならそんなに危険なことはないのかもしれないけど、夜の森ってなんだか怖いし。
「ただまぁ初日だし、森はなしで行くか」
こちらの足元を見ながらそう告げる。
「明日からはちゃんと靴を履いて来いよ。
ミリアーナに言っておくから」
「はぁ」
とりあえず靴の確保はできたようだが。
「さすがに裸足で森を走り回るのは勘弁しといてやろう」
あー、それは確かに勘弁願いたい。
「じゃあさっそく始めるか」
レオンの頭をなでながらそう声をかける。
「しばらくしたらレオンを仕掛けるから早く逃げるんだな」
にやっと口角を上げるとレオンをスタンバイさせる。
レオンは前足でガリガリと地面を引っかいて牙を剥き出して威嚇する。
何コレ、すんげー怖いんだけど。
捕まったら何されるかわかったもんじゃない。
「ほれ、もう始まってるぞ」
「うわああああぁぁぁぁあ!」
悲鳴を上げながらとにかく走る。全力で走る。
思ったよりスピードが出ない。子どもの体格だとこんなものだろうか。
夕日はもう森に差し掛かり、太陽は直接見ることができない。
そんな夕暮れの訓練場をひとりの幼女が必死の形相で駆け抜ける。
しばらく経って後方より「よし行け!」と掛け声が聞こえた気がした。
――ヤバイヤバイヤバイ! 追いつかれる! 食われる!
食われるわけはないのだが、混乱してまともな思考ができなくなっている。
後ろから獣の走る足音が聞こえてくる。というかそもそも四本足の獣から走って逃げられるわけがない。
ずべしゃっ!
背中に衝撃があり、走っている勢いもそのままに顔面からヘッドスライディングの要領で地面へ倒れる。
レオンに頭突きされたのだろうか。食われなくてよかった。
顔面を手で抑えながら少し冷静になってきた。
「……イタイ!」
うつ伏せで倒れたまま後ろを振り返ると、レオンが仁王立ちしている。
相変わらずの威圧感だ。
「――っ!」
また悲鳴を上げそうになったがなんとかこらえる。
声を上げればまた襲われそうな気がしたのだ。
恐る恐るゆっくりと立ち上がると、待ってましたとばかりに牙を剥き出しにして威嚇してくる。
恐怖のあまり後ずさる。
そしてそのまま回れ右すると、レオンを背にして駆け出した。
なんで俺こんな世界に来ちまったんだよ! 俺なんか悪いことしたかよ!
目尻に涙を溜めながら必死になって走る。
とは言え五歳児程度の体格の幼女が狼から逃げられるはずもなく、レオンが前足を振り上げた踝と思うと、アフィシアの走る足を横薙ぎに払う。
「うあっ!」
何歩か足がもつれながらも、耐え切れず倒れる。
くっそ、これなんて無理ゲーだよ!
あんなの逃げ切れるわけがないし。
もう一度ゆっくりと立ち上がるが、もう涙が止め処なくあふれてくる。
逃げ切れる気がしなくてその場で立ち尽くしているとレオンが近づいてきた。
「ひっ!」
短く悲鳴を上げるがレオンはお構いなしだ。
目の前までくると、俺の顔の大きさほどもある舌を伸ばしていきなり俺の顔を舐めてきた。
予想外の行動に動けずに固まっていると、今の内と言わんばかりにこれでもかとベロベロ舐めてくる。
「――ちょっ、なんなの!」
一歩下がって舌の範囲から逃れる。
俺に逃げられたレオンは、またもや牙を剥き出して威嚇をする。
――ああ、そうか。
こいつは命令通り遊んでるだけなんだ。
恐怖が少し和らいだが、替わりに怒りが湧き上がってきた。
くそっ、俺はおもちゃじゃねえぞ! 絶対に逃げ切ってやる!
すでに二回ほど蹴倒されているのだがそんなことはもうアフィシアの頭からは抜け落ちている。
レオンから逃げるようにまた走り出す。今度は小突かれないように、後ろをちらちら窺いながら走る。
しばらくしてレオンが動き出したところで立ち止まって向かい合う。
「さあ来い!」
膝を曲げて腰を落とし、いつでも動けるように身構える。
レオンが走り迫ってくる。もちろん全力疾走なわけはなく、余裕のある走りだ。
目前まで迫った時、右側へと逃げるようにフェイントを入れて左側斜め方向へレオンとすれ違うように駆け出す。
まったく警戒していなかったレオンはフェイントに引っかかったようで空振りした。
体力がなくなってすぐ走れなくなるかと思ったがそういうこともなく、完全に真っ暗になるまで追いかけっこは続いた。
これもホムンクルスの特性というやつなのだろうか。あんまりうれしくないが。
フェイントが効いたのも最初の一回のみで、あとは蹴倒され続けるのみだ。
「……もう無理」
しかしそろそろ限界である。
今も蹴倒されたところだが起き上がれる気がしない。
腕に力をこめているとふと地面が遠くなり微妙に首が絞まる。
「……んあ」
思わず変な声が出る。首筋が生暖かい。
レオンが襟首を咥えて持ち上げたのがわかった。
自分より背が高いレオンに咥えられているので、足は宙ぶらりんだ。
首だけ絞まるので手を首元に差し込んで隙間を作る。
恐怖や怒りはとっくに消え去っている。
むしろどうにでもなれという感じだ。
無抵抗でぶら下がっていると、レオンが歩き出した。どうやら食堂に向かっているようだ。
と、食堂の出口からシリウスが出てきた。
ああ、そういえばこんな人いたな。
夢中で逃げ回っていたのでシリウスのことはまったく頭から抜け落ちていた。
「やあ、お疲れ。楽しかったか?」
楽しいわけねーだろ。
いや、レオンに聞いたのかな。
まあどっちでもいいけど。
「……」
返事をする気力もないので黙っていると、シリウスが訓練終了を告げてきた。
「今日はこれで終わりだな。レオン、部屋に連れて行ってやれ」
言われたレオンはそのまま食堂に入っていき、俺は咥えられたまま部屋に運び込まれる。
そして藁ベッドにそっと俺を置く。
「あ……、ありが――」
一応、お礼だけでもと思った瞬間、レオンにまた顔をベロベロ舐められた。
一通り舐めたあとに去っていった。
「……はぁ」
疲れた。何もする気が起きない。体中砂だらけだが、シャワールームまで歩ける気がしない。もうこのまま寝よう。
そのまま横になるとすぐに寝息を立てるのであった。