冷たいコーヒー
澤村賢治は、喫茶店でひとり日記を読みながら、すっかり冷めてしまったコーヒーを啜っている。
店の入り口付近にあるアンティークの古時計が、カチコチと時を刻む音を響かせる。
とても広いとは言えない店内の窓際の席で、ページに目を落とした賢治は溜息を洩らした。
賢治と彼女が出会ったのは、まさにこの店内である。
その日も今と同じように、窓から差し込む夕日で店内は朱に染まっていた。
「あっ、すいません……」
カウンター席でコーヒーを飲みながら日記を書いていた彼女が、ペンを取り落した。
ペンは賢治が座っている席のほうへ転がる。
窓際で本を読んでいた賢治は転がってきたペンを拾い上げ、そして彼女と目が合った時、目を丸くした。
賢治の顔には、とんでもない美人がいた、と書いていた。呆然とした表情をしばらく晒してしまった恥ずかしさからか、さっと目を逸らし、拾ったペンを手渡す。
ちらっと目に入った日記帳の名前記入欄には、『長田茜』と記されていた。
「すいません、ありがとうございます」と彼女は律儀に頭を下げる。
「日記書かれてるんですか」
「ええ、趣味のようなもので……」
どこか物憂げな彼女の表情に、賢治はやはり見惚れる。
「僕も書くんですよ、日記」
おそらくは嘘だろう、しかし賢治はなんとか会話を繋げようと必死だった。
仲良くなりたい。そんな感情が透けて見えるようだった。
それが賢治と茜の、出会いだった。
それからの賢治は、彼女が来るであろう時間帯を選んでは喫茶店に足を運び、そして彼女といくつもの言葉を交わし、実際に仲良くなった。
ある日、窓際の席で相席をしている茜が、こんなことを言った。
「わたし、ストーカーされてる気がするんです。いつも誰かに見られてるみたいで……今も。もしかしてわたしは、病気なんでしょうか」
俯いて不安げな表情を浮かべる茜に、賢治は声をかける。
「あんまり気にしないほうがいいよ。茜さんは神経質なところがあるから」
その言葉を聞いた茜の表情は、不安さが更に増したようであった。
それでも賢治はあまり気にする風もなく、
「ごめん、僕は用事があるから、これで」
と喫茶店を後にする。賢治は明るい性格だが、同時に能天気だった。
賢治は日記のページをめくった。日記に書かれているのは均整のとれた美しい字で、彼女の品の良さが伺える。
そのページには、こう書かれている。
『賢治さんという方と知り合いました。彼はとても明るくて、話していてとても楽しい方です』
『賢治さんの高校生の時の話、とても笑いました。ああ、あんなに笑ったのはいつぶりだろう』
賢治はさらにページをめくった。
『やっぱりストーカーでしょうか。夜家に帰るとき、朝家を出るとき、気持ちの悪い視線を感じます……。直接なにかされたわけでもないけれど、でも……』
『賢治さんに相談してみました。気にするなって言われた……。こんなに怖いのに、どうして分かってくれないの?』
日記は、そのページで途切れていた。
先に続く空白のページを、賢治は浮かない表情でパラパラとめくる。
そして残り少なくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「マスター、おかわり」
「はい」
声を掛けられ、私はカウンターから出て賢治のカップに熱いコーヒーを注いだ。
「彼女、失踪してから何日が経ちますかね」と賢治。
「そろそろ一週間くらいですか。どこに行ったんでしょうねぇ。日記もここに置き忘れて」
と私は笑い出したくなる感情を必死で押さえながら言った。
「どうしたんですか?」と賢治。
おっと、笑いが少し顔に出てしまったようだ。気を付けないと。
賢治の憂鬱な表情が、私には心地いい。
茜と賢治がどんどん距離を縮めて行くのを見るのは、拷問のように辛かった。
私は悔しさから腹いせのようにストーカー行為を重ね、彼女の姿を観察して心を癒した。
そして私は今、至福に包まれている。
なぜなら。
「ほんと、どこ行っちゃったんだよ。茜さん」
茜は、この喫茶店の地下室で、私が飼っているからだ。