午前三時という世界で
午前三時。大抵の人間は眠っている、たとえ起きていたとしても、家の中にいるであろう時間。そんな時間に、僕はぼんやりと街をぶらついていた。
ビルの蛍光灯の明かりに看板のネオン、それから、酔っ払いの声が騒ぎたてる、うるさげな街と、圧倒的に少ない人口と、建物が多いとはいえ仄暗い夜の街並みの静けさが隣り合った、不思議に濃密な空間。
昼間とは全く違う顔を持った街は、まるで違う世界のようだった。
そんな街を、ウォークマン片手に僕はただ歩く。
耳元を彩るのは、古い洋楽。歌詞はまったくわからないけれど、心地よい軽快なリズムが僕は好きだ。
どうしてこんな夜中にわざわざ散歩をしているのかときかれても、僕は答えを持たない。なんの理由も意味もないのだ。
でも、しいて言うならば、学校だろうか。
僕は教室では、「目立たない男子」の部類に入る。いや、決して入りたくて入ったわけではないのだ。気づいたら、何者かの陰謀により入れられていた、というのが正しいだろうか。
まあ、つまり、どう言い繕っても仕方がないので単刀直入に言うと、僕は教室の隅に追いやられ、ろくに友達もできずにいるのだ。
いじめられていないだけマシとも言えるのだが、クラスの偏ったヒエラルキーの中で、「目立たない男子」というのは、植物と同等の扱いである。まず発言権は認められていない。それから、無言の圧力により、廊下の真ん中を闊歩することもできない。
こんなくだらない小さな世界の中で、くだらない人間が定めたくだらない制度に則っている僕も極めてくだらない人間であるのだが、しかし、僕ら高校生にとって、学校というのは生活の大半を占めるものであり、そこで目をつけられれば、厄介である。場合によっては、居場所を失うおそれがある。なぜなら、僕らは植物なのだから。
今はまだ、食料と見なされていないが、万が一美味い餌だと思われてしまえば、奴らに捕食されてしまう。
あの教室のヒエラルキーの中でいちばん強いイキモノは、肉食ではない。雑食だ。美味いと思えば何でも食い荒らす。ケダモノである。
つまり、簡潔に言えば、僕は狭苦しい学校に嫌気がさし、かといってそこから脱出する能力も勇気もないため、日々溜まる鬱憤を深夜の散歩で晴らし、ちっぽけな己の自尊心を守っているのである。
ああ、理由も意味もあったようだ。
夜の街へ繰り出すと、僕は不思議と世界中に自分一人しかいないような錯覚に陥る。その辺に、酔っ払ったサラリーマンも、水商売風のケバケバしいおばさん……失敬、お姉さんもいるのに、だ。
僕が思うに、恐らく、人こそいるが、世界を見ている人が他にいないのだと思う。
僕は散歩中、淀みなく流れる音楽に耳を傾けながら、夜の街を見回す。時折、立ち止まって狭い空を見上げては、くすんだ月を眺めた。
しかし、僕以外の人間は、皆、疲労と迫り来る現実の中で、世界の美しさに身を委ねる暇などないようで、ただただ、目の前にある何かだけを必死に追うようにすれ違う。
一度、立ち止まってみたらいいのに、とは思うが、僕ら呑気な高校生とは違うのだろう。
今夜も僕は、一人立ち止まっては、時の流れを忘れ、世界を眺める。
そんなある日のことだった。僕は、運命の出会いをした。陳腐な言い回しではあるが、確かに僕は運命と呼ぶに相応しい何かを感じた。
ただなんとなく、道を左に曲がり、信号機が青いライトを急かすように点滅させたから横断歩道を渡った。
その先に、彼女はいた。
じっと空を見上げている彼女は、いつまでも見つめていたくなるくらい様になっていた。
こんなよる遅くなのに、なぜか彼女はまだ制服を着ていた。セミロングの染めない黒髪に、決して派手ではないが整った顔立ち。僕が、密かに思いを寄せている人。
僕が声を出すより先に、彼女が振り向き口を開いた。僕のことを覚えててくれたんだ。思わず口元がほころぶ。
「こんばんは。こんな時間に、どうしたの?」
そう尋ねる彼女は、どこかほっとしたような表情を浮かべた。
「僕は、ただの散歩。そっちこそ、こんな時間までどうしたの? まさか、部活がこんなに遅くまであるわけないし」
「うん。部活じゃないよ。塾の帰り」
彼女はにこりと笑って答えた。
「塾の帰りって言ったって、遅すぎるでしょう? テスト前でもないのに」
「うん。塾は十一時に終わったよ。でも、帰ろうと思ったら、帰りの電車賃、なくしちゃって」
まいっちゃったよ、と彼女は笑うが、笑い事じゃない。この寒空の下、四時間も一人でうろついていたというのか。だったら、家族に連絡をすればよかったじゃないか、と言ったが、携帯電話の充電が切れてしまったという。
「じゃあ、どうするつもりだったの? 交番なり何なりに行って電話を借りればいいのに」
「ああ! その手があったね。私、どうしようもないから、朝を待つつもりだったよ。ここからなら、歩いても学校行けるし」
なんて天然なんだ。僕は頭を抱えたくなった。
いくら手段がないとはいえ、朝を待つという発想に行き着き、そこに落ち着ける女子高生とはどれだけいるものやら。
「じゃあ、ケータイ貸すから、家族に電話しなよ。きっと心配してる」
「え、いいの? ありがとう」
携帯電話を差し出すと、彼女は素直に両手で受け取った。やや不器用な手つきで、市街局番から自宅の電話番号を押す。
親が一方的に話すような会話をすると、電話を切った。どうやら、最寄りの駅まで車で迎えに来てくれるという。
「駅まで、送るよ。こんな遅くに危ないし」
精一杯の勇気を振り絞った提案を、彼女は再度ありがとうと言って受け取ってくれた。
午前三時の不思議な空間を、今度は彼女とふたりで歩く。素手をこすり合わせながら歩く彼女はとても寒そうだ。
「寒い?」
「うん、ちょっと」
「そういえばさ、さっき、空を見てたよね」
横断歩道を渡った先でのことだ。彼女も、時折僕がするのと同じように、空を見ていた。
「うん。こんな夜中に外にいたことないから。空ってさ、私にとっては世界の象徴なの。だから、今まで知らなかった、午前三時って世界を見てたの。ーーなんて言ったら、ヘンな奴って思われちゃうかな?」
「そんなこと、ない」
不意をつかれて、涙が零れそうになった。悲しいんじゃない。感動とも違う。嬉しいのかもしれない。ひとりぼっちだと思っていた世界に、他の人間を見つけたのだ。
僕しか知らない、僕しかいないと思っていたこの世界には、同じ空を見つめる人がいた。それは、たまらなく嬉しかった。
「僕も見るよ。それで、思うんだ。学校で意気がってる奴らって、くだらないなって。こんな世界も見たことないで、学校なんてちっちゃな箱に収まって満足して、本当にくだらない」
なぜだろう。いつも思っていた。けれど、誰にも言えないと思っていたことも、彼女の前でなら、なんでもさらけ出してしまえるような気がした。
そして、受け止めてもらえる気さえした。
「わかるよ。それ。私も、学校キライ。いや、学校じゃなくて、クラスかな。くだらないよ。ちゃらちゃらして目立ったら偉くって、地味で大人しい人間なんて、その辺の石ころだもの」
思わず吹き出してしまった。僕はてっきり、彼女は、そこそこ仲のいい友達がいて、そこそこ楽しい学校生活を送っているものだと思っていた。
それを告げると彼女は笑った。
「あはは。それ、完全に騙されてる。女子ってのは怖いよ。上辺は親しげでも、水面下ではどう思ってるんだか」
冗談混じりに笑いながら歩いていたら、駅が見えてきた。一台だけ止まっている軽自動車は、彼女の家のものだろう。
「送ってくれてありがとう。あとは、恥ずかしいからひとりでいくね」
「うん、わかった。じゃあ、また明日」
そう言って手を振ると、彼女は背を向け歩き出した。しかし、少し立ち止まってから、また振り返った。
「ねえ、私たち、すごく気が合うと思うの。よかったら、付き合わない?」
一瞬で顔が火照るのを感じた。ずっと思いを寄せていた相手から、告白されたのだ。すごく嬉しい。首を振るのは縦しかあり得ない。だけど、それを彼女にされてしまったことに自分の情けなさと不甲斐なさを感じる。なんとも複雑な心境である。
「あの、それ、僕が言いたかったんだけど!」
あえて口にしてみると、彼女はいたずらっぽく笑った。
「それって、両思いだったってことで、いいんだよね?」
彼女の方が一枚上手だ。悔しかったので、大股で彼女に詰め寄る。
彼女は驚いたように半歩後ずさった。
漫画なら、ここでキスのひとつでもするのだろうが、僕がそんなことのできる男であるはずもない。
唇を塞ぐ代わりに、イヤホンで彼女の両耳を塞いだ。
「これ、僕がいつも、散歩しながら聴いてるやつ。すごく、好きな曲。それで、これ貸すから、歌詞、英語でわかんないから、教えてくれない?」
目をそらさないように必死になりながら、何とか彼女に伝えた。今は、これが精一杯なんです。
「うん。いいよ。私、英語は得意なんだ。もしよかったら明日、CD貸してよ。私もプレイヤーに落としたい」
「別に、いいけど。一通り聴かなくていいの?」
「うん。だって、あなたが好きな曲でしょう? いい曲に決まってる」
彼女は最高に素敵な笑顔を咲かせた。僕は頬が緩みそうになるのをこらえて、了解の返事をした。
「それから、明後日、デートしようよ」
付き合うとなると、彼女は途端に積極的なもので、僕はたじろいだ。いきなりデートは、あまりにも展開が早すぎる気がしたのだ。
だからと言って、断る理由にはならない。というより、彼女の誘いを断る言葉を、今の僕は、持っていない。必要ない。
「うん。いいけど、どこに行きたい?」
「何行ってるの? そんなの決まってるじゃない。午前三時に、あの横断歩道の先で、また、会いましょう。今日みたいに、ね。いいでしょ? じゃあ、おやすみなさい」
一方的に告げると、彼女は駅の方へ早足に去って行った。
取り残された僕は、珍しく、明日の学校を楽しみに思いながら、体の横で小さく拳を握った。
ひとりぼっちの午前三時。誰もいない街で、ひとり世界を眺めて歩く。
だけど、これからはひとりじゃない。
ふたりぼっちで眺めて歩こう。
午前三時という世界を。