俺は頑張っていたと思う
目覚まし時計が懸命に仕事をしている。五月蝿い……。
時刻は朝の5時。そうか、もう起きなくてはな。
身体も脳も休息が足りないと訴えている。「3時間も寝られたじゃないか」と懸命に彼らを説得し、何とかベッドから起き上がる事に成功した。
リビングに向かうと、すでに妻が朝食の準備をしてくれている。俺にはもったいない、よく出来た嫁だ。
「あ、おはよう! 今日も良い天気みたいね」
天気は良いが、俺の心は夜と間違えるぐらい曇っているよ。そう言い掛けて言葉を呑んだ。
彼女が献身的にしてくれる理由に『心配』成分は少なくない。これ以上心配させる訳にはいかないからな。
俺は彼女の優しい笑顔を背中に、飯、トイレ、歯磨き、と朝一の仕事を忙しくこなしていく。
忘れちゃいけないのが妻との10分程度の会話だ。
朝10分、晩の30分の妻との会話が、唯一のストレス解消だからだ。そして、可愛い娘の寝顔を見ること……。
「いってらっしゃい」
妻が満面の笑みで送り出してくれた。
朝6時。こんな時間でも、電車は満員だ。ピーク時のそれとは比べ物にはならないが、明らかに乗車率は200%を軽く超えている。
この国は狂っているぜ! もちろん他国の通勤事情なんて知らないがな!
7時30分。会社の自分のデスクに座ると、同時に飛んでくる上司と部下。まず最初に、口火を切ったのは肥えた初老の上司の方だ。
「この企画書はなにかね! こんな予算案じゃ大損だろ!」
それは指摘したさ。昨日のあなたが、その予算を提案したんだぜ。そうは思いつつも、情け無い笑顔で謝る事しかできない。そして、今日中に直さないといけないんだろうな。
鬱々とした気分に追い討ちをかけるのが、今年に入社したばかりの部下だ。
「先輩。実は、2日前に取引先に送った書類にミスがあって……。そろそろ、書類が相手のもとに届く頃ですよね? どうしたらいいですか?」
知らん。手遅れだ。何で、今日になってから相談しにくる。最近の若者はホウ・レン・ソウも知らんのか。おひたしにすると旨いんだぞ。
朝からパニックの連続だ。どこの会社もそうなのだろうか?
いや、きっとこの会社がおかしいに違いない。そう思うことで、少し心が救われるのは何でだろうな。
さて、今日一番の仕事は決まった。取引先に謝りに行かないと。
答えは解っているのだが、上司に報告する。
「何やっているんだ。今すぐ謝りに行きなさい。ここから走れば、9時ごろつくな。丁度いいじゃないか。部下のミスはお前のミスだ。そんな事にタクシーが使えると思うなよ」
ほらな。さて、1時間とちょっとのマラソンにチャレンジだ。こんなことは慣れたが、これでまた終業時刻が遅くなるのには不満を覚える。
何とか間に合ったな。8時50分。少し余裕を持って取引先には到着した。汗を引かせるには良い時間だ。
10程も俺より若い部下は、今にも死んでしまうのではないだろうか、と言うぐらいに苦しい表情と荒い呼吸をしていた。
大丈夫そのうち慣れるさ。この会社を辞めなければ。
まぁ、もちろんの事、取引先には「なんて事してくれたんだ」と凄い剣幕で怒鳴れる。
当然の対応か。俺は、ただただ平謝りするしかない。腰深く何度も謝る姿が日本一似合う男は、俺に違いない。その隣で、あたふたとするばかりの部下が視界の端に映る。
俺は、あえて何も言わない。これも良い経験だ。大きくなれよ。
そして、こうして恩を売るからな。頼む辞めないでくれ!
そうだ。彼には、まだ試練が残っている。当然帰りも走りだ。
会社に戻ると、新しい仕事が山のように出来ていた。時刻は……。まだ、10時30分。『もう』と言うべきか。なにせ、今日やった仕事と言えば謝罪ぐらいなものだ。
庶務、「ゴメンなさい」、雑用、「スミマセン」、営業、「善処します」……。目まぐるしく時間は過ぎ去っていった。
時刻は20時。なんとか、終電には間に合いそうだな。
「今日は大事な接待があるんだ」
いつも接待は突然やってくる。これもうちの会社の特徴だ。終電2時間オーバー決定!
接待と言えば思い出す。社会人になって、はじめて殴られたのは初接待の時だった。あの時の俺は若かった。
「この後、仕事が残ってるので」
なんてビール3杯目以降に手をつけなかったからな。相手より酒を飲まない接待があるかと殴られたのだ。
接待から、やっと開放された時には22時を過ぎていた。酒のせいか、睡魔様がお越しになっている。丁重にお帰りいただくために、栄養ドリンクを飲むのだが、奴は帰ってくれる気配は無い。
居座った睡魔様を、見ないようにして残りの仕事に取り掛かる。
午前1時47分。今日もお仕事お疲れさまでした!
しかし、俺はとんでもないミスに気がついた。タイムカードを18時に押すのを忘れていたのだ。
明日一番の仕事は決まったな。始末書と手書きの勤務報告書作成だ。謝罪も忘れちゃいけない。
こんな狂ったわが社でも、何故か帰りのタクシー代は経費で落とせる。
終電に間に合わない事が前提のこのシステムは、解りやすい飴の役割のつもりなのだろうが……。
このシステムを知った時の俺たちの反応は『恐怖』だったんだぜ? 気づいて欲しいな。
2時30分。家に着くとまだ電気がついている。こんな生活をしていても、「おかえりなさい」があるのが俺の自慢だ。妻は「昼寝しているから大丈夫よ」と不満の1つ漏らさない。
死の恐怖が付きまとうこの生活だが、心のそこから言える。君のためなら死んでもいいと。
しかし、これを言った時、普段はおとなしい彼女からグーパンチが飛んできた。
妻との楽しい30分の会話を楽しんだ後、寝室のドアを開ける。こいつが動いているのを見たのは、何ヶ月前だったかな。
2歳になる娘はもう寝ていた。
俺は、自分のベッドに入り気合を入れる。
さて、愉快な月曜日も終わりだ。休日まで後17日か。頑張るぞ!
数ヶ月ぶりの休日は、動いている娘との再会も意味している。
さっき言った事は、取り消しだな。
俺は絶対に死んではいけない!
目覚まし時計がリンリンと鳴る。
よし! 今日も頑張ろう!
なんだか、無性にやる気が出ている。
「ほら、遅刻するわよ」
「今、いくよー」
リビングに向かうと、既に朝食が並んでいた。今日は目玉焼きか。
彼女は、料理が好きと豪語する割には、朝食のレパートリーは3種類ほどしかない。
テレビのニュースを見ながら食べる朝食。朝のニュースは大事だよね。
「ねぇ、今年の世界学力テストさ。日本の小学生が全教科でダントツ1位だって。凄いでしょ」
自慢する僕を、彼女は満面の笑みで褒めてくれた。
そして、僕が出かけ際。彼女は、いつもこんな事を聞いてくる。いつまでも、子ども扱いしないで欲しいな。
「宿題もった? ハンカチは? 気をつけて行ってらっしゃいね」
ある大きな建物の前に、黒く長い豪華な車が停まっていた。
中には、日本国民なら誰でも知っている、あの人が乗っていた。
そして、もう一人。メガネをかけ、やせ細ったスーツ姿の男が乗っていた。
メガネの男が嬉しそうに話した。
「悪田 太郎総理。チデジに、死者の記憶を夢見るようにする、ノイズを発生する技術は、良い買い物でしたな」
「君。気安く言ってはいかんよ。尊い庶民の犠牲に成り立っているんだから。それに、50年間も国家予算の2%を払うのは、安い買い物じゃないさ」
「何をおっしゃる。それで、この技術を我が国だけで独占出来るんです。日本は安泰ですよ。やはり、良い買い物です」