真美はゲーミングおっぱいをしまった。
中学二年の秋、同じ教室には真美がいた。
二十五人ほどのクラスで、真美はだいたいどの席からも見えた。いや、運良く見える席が僕の席だった。黒髪は肩にかかるくらいで、化粧をしているように頬は紅色だった。制服のブラウスのボタンは襟元まで留めていた。教室が少し暑くても、そこは変わらなかった。
清楚、という言葉を人に使うのは、なんとなく気恥ずかしかった。けれど真美を説明しろと言われたら、僕はまずそれを使うしかなかった。ほかの言葉を探している間にも、真美はペンを落とした誰かに拾って渡したり、机の間で鞄が引っかかった人に椅子を引いたりしていた。
クラスのマドンナというやつだった。本人がそれを知っているかどうかは知らなかった。僕は知っていた。いつも同じ教室にいるのに、知らないふりをするほうが難しかった。
ある日席替えで、真美の席はたまたま僕の隣になった。机をくっつける必要もないのに、僕は自分の教科書を少し左へ寄せた。右に真美がいた。筆箱の端が隣の机へはみ出さないように、いつもより丁寧に並べた。
「じゃあ次」
先生の指がこっちへ向いた。順番は分かっていたのに、どこを読めばいいのか分からなかった。隣の席については十分に注意を払っていた。その注意を少しでも授業に回すべきだった。
教科書の上に、真美の指が来た。
短い爪の先が、一行を示していた。そこか。そこなのか。僕は行の先頭より、その指のほうを先に見てしまった。ようやく読み始めたら、最初の単語でつまずいた。助けてもらってこれだった。
先生に発音を直され、もう一度読んだ。真美は自分の教科書へ目を戻していた。僕はお礼を言う機会を探したが、授業中だったし、また何も聞いていないところを当てられるのも困った。
先週、前の席の男が詰まったときにも、真美は同じように指で教えていた。僕はそれを見ていた。彼女は誰にでも優しかった。僕に優しいことも、その中にちゃんと含まれていた。それを抜き出して別の意味を付けるのは、いくらなんでも都合がよすぎた。
そう考えて、僕はさっきの行に小さな丸を付けた。読み終えた印だった。あとで開いたとき、そこを見つけられるようにしたかった。
その頃、僕は帰り道で友達とゲーセンに寄るのにハマっていた。格闘ゲーム、レースゲーム、UFOキャッチャー、なんでもやった。
対戦相手の茶髪の男が、僕に負けた拍子に、台を叩いた。手首のLEDタトゥーに虹色が流れていた。色が変わるたび、対戦台に違う光が映った。量販店の売り場で光っているキーボードに、似た色の動きがあった。
こういうものは、派手な連中のものだった。髪の色を変える人。LEDタトゥーを入れる人。僕は中学生で当然したことはないし、そもそも、したくても、具体的に何をすればいいか分からなかった。
真美が一度だけ女友達とゲーセンに来たことがあった。
UFOキャッチャーとプリクラだけやっていた。
帰る段になったのか、会話が聞こえた。
「真美はこの後どうするの」
「帰る」
「なんで、もっと遊ぼうよ」
「うち、お母さん再婚してるから」
真美は軽く言った。聞いた女は「あ、そうなんだ」と答えた。それ以上のことは誰も聞かなかった。
英語の宿題が出ていた。僕は宿題をよく授業のあとにやった。家へ持ち帰ると、教科書を開くところから始めなければならない。そのまま座っていれば、少なくともそこは済んでいた。
みんなが出ていくと、窓際で問題用紙を広げた。一人で残るのにも慣れた。十一月下旬の木曜も、僕は教科書を開いたままにした。
下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
僕は窓際で広げた宿題と開いた教科書を手元へ寄せた。僕以外に教室に人は居なかった。
見回りの先生か誰かが入口のスイッチを押したのか、電気が消えた。窓際の僕は見落とされたのかもしれない。
西向きの窓から夕日が差していて、紙の文字は読めた。下校しなければいけないのはわかっているが、後もう少しだから、済ませたい。
電気を立って点けに行くより、一問でも済ませるほうがよかった。
問題用紙の端に、僕の手の影が長く伸びた。鉛筆を動かすと、影も動いた。そっちはずいぶん働いているように見えたが、答えはなかなか埋まらなかった。
扉が開いた。
「忘れ物」
真美だった。僕が顔を上げると、彼女は自分の座っていた席へ行った。机の中をのぞき、筆箱を取り出した。それを鞄に入れてから、こっちへ来た。
「まだ終わらないの」
「宿題多くて」
「そっか」
真美は僕の宿題を見た。僕はとっさに隠しかけ、やめた。机の上を片づけるべきかとも思ったが、片づければ帰ることになってしまう。それは困った。
教室には僕と真美しかいなかった。こんな忘れ物なら、何度でもしてほしかった。できれば毎週。しかし誰かの物忘れを願うのも妙なので、僕は鉛筆を置いた。
「ねえ」
真美が、白いブラウスのいちばん上のボタンに指をかけた。
一つ、二つ、三つ。
僕は何も言えなかった。紺のカーディガンは前が開いていた。その内側で、真美は両手でブラウスの前を開いた。鎖骨の下から下着の線の上まで、両胸の上半分に、細い導線のような線があった。
真美がふっと息を吐いた。導線に色が点いた。
虹色が、左から右へ流れ始めた。どうやって点けたのかは分からなかった。分かったのは、僕の目の前で真美の胸が光っていることだけだった。
「こういうの男子は好きなんでしょ」
「ゲーミングおっぱいよ、調べたんだから。」
真美の声に、どこか諦めのようなものが混じっていた。いつもの優しさとは違う、冷たい確信のようなもの。
それにしても、ゲーミングおっぱい。僕の頭は、聞いた言葉をそのまま受け取った。受け取ってから、置き場所がないことに気づいた。そんなものを置く棚は作っていなかった。ところが現物は目の前にあった。名前も真美が付けてくれた。整理するには十分な条件だった。十分なはずだった。
赤が線を走り、そのあとを青が追った。夕日の当たるところでも、色は分かった。窓から入る光は動かず、配線の光だけが移っていた。両方が同じ場所にあるのが、どうにも信じられなかった。夕方の教室で、僕の教科書のすぐ向こうに。
あの真美が、LEDタトゥーを入れていた。
襟元までボタンを留めていた真美だった。黒髪で、桃色の頬で、うるさいホームルームでも静かに話を聞いていた真美だった。僕の分け方なら、髪の色を変えないほうにいた。僕と同じ側だった。少なくとも、この光とは違う側にいるはずだった。
ゲーセンに居た茶髪の男の手首が浮かんだ。対戦台に映っていた虹色も。あのときは、ああ、こういう男はこういうものを入れるのだ、と分かれば済んだ。真美を同じところへ入れようとすると、ほかのものが全部こぼれた。僕の棚は、いま倒れかけていた。
緑の光が右へ抜けて、左からまた別の色が来た。終わらなかった。真美の白いブラウスにも、少し色が映っていた。布はいつもの布だった。それがなおさら変だった。変だったが、目を離す理由にはならなかった。
僕に見せていた。
ほかの誰でもなく、いま教室に残っていた僕に。忘れ物があったから戻ってきて、僕がいたから、こうしているのだろうと思った。偶然でもよかった。誰かの忘れ物と僕の居残りが、こんなふうに重なるなら、偶然にも礼を言ってよかった。
嬉しかった。ものすごく嬉しかった。宿題をする習慣が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
顔を少し上げると、真美は僕を見ていた。僕の目には落ち着いて見えた。ボタンを三つ外しただけで、彼女はいつもの真美だった。いつもどおりにできないのは、僕のほうだった。鉛筆を置いた手をどこへ持っていけばいいかさえ、分からなかった。
からかわれていた。それも、ずいぶん余裕を持って。
普段の僕なら、からかわれるのは好きではなかった。でも、これはよかった。続きを見られるなら、多少笑われてもよかった。多少でなくても、いまはいいような気がした。こんなふうに自分の基準を値下げできるとは、僕も知らなかった。
流れる光を目で追うと、どうしても右へ行った。左に戻ると、また次の色が来ていた。見ていることが隠しようもなく伝わってしまう。それなのに、見るのをやめることだけはできなかった。
見たかった。光っているから、見てもいい理由ができたのではなかった。真美が前を開いたところで、僕はもう見ていた。光が消えても、たぶん見続けた。いや、たぶんではなかった。そこは妙に確かだった。
量販店のキーボードの前なら、僕はこんなことにはならなかった。色の動きが同じでも、売り場で立ち尽くしたりはしなかった。手首の男にも、もう少し見せてくれとは思わなかった。いまは、しまわないでほしかった。まだ、と思った。何がまだなのかは、自分でも説明できなかった。
それなのに、男子はこういうものが好きなのだと、まとめられていた。
茶髪の男と僕を、同じところへ置かれた気がした。あの男は、自分であの光を選んだ。僕は選んでいなかった。僕が入れても似合うとは思わなかったし、入れたいとも思わなかった。だが目の前のものは見たかった。これを全部一緒にされると、話が変だった。
いま頷けば、光るものが好きな男子として返事をすることになった。真美の中で、僕はそういう人になってしまう。違う棚の人間が二人並んで、同じものを喜んでいることにされていた。僕のほうから見れば、大事なのは光り方より、誰がそれを見せているかだった。
ただ見たいだけなら、頷けばよかった。そうすれば、見ていられた。簡単なことだった。僕の目はもう、十分すぎるほど返事をしていた。けれど頭のほうは、自分に付いた札をまだ読んでいた。その札を付けたままにするのは嫌だった。
「違うよ」
反射的に言ってしまった。光が好きなんじゃない、と言いたかった。光なんかどうでもよくて、真美が見せてくれるから見たいんだ、と。
「なんだ、見たくないの」
軽い声だった。笑いが混じって聞こえた。僕は左から来る青い光を追っていた。顔を見なければ、何を言われているのか分からないはずなのに、目はそっちへ行かなかった。真美がどんな顔をしているかより、見られなくなるかもしれないことのほうが、急に大きくなった。
しまった。僕が否定したのは、見ることではなかった。それなのに、さっきの一言は、そこへ届いていた。頭の中であれだけ分けていたものが、口から出た途端、一緒になってしまった。
見たいに決まっていた。そんなことは、わざわざ言わなくても伝わっていると思っていた。伝わっているどころか、見すぎているのをどう隠せばいいかまで考えていた。その僕が、見たくない人として扱われかけていた。どこでこんなことになったのか。僕の口だった。
正確に言うなら、真美だから見たい、だった。それを言えば済んだ。だが済むのは、この行き違いだけだった。次には、真美をどう思っているかという話になった。あれだけ必死に、自分への優しさを特別なものとして数えないようにしていたのに、こっちの気持ちだけは丸ごと差し出すことになった。からかっている相手に、そんな返事ができるはずもなかった。
僕は言い直す言葉を探した。理由を抜けばよかった。何が好きなのか、誰が好きなのか、そこを全部抜いて、見たいところだけ伝えればよかった。いまはそれだけでよかった。
けれど声を出そうとすると、最初に引っ込めたかった一言が、また先頭へ出た。否定を取り消したいのに、僕には否定からしか始められなかった。
「違うよ、見たいよ」
やっと言えた。これで、見たいほうの返事だけは出た。僕はまだ光を見ていた。
「見たくないんでしょ。もうおしまい」
さっきと同じ、軽い調子に聞こえた。言い直したことを、またひっくり返された。僕は慌てて顔を上げかけた。そのとき、虹色が消えた。赤も青も、一緒に見えなくなった。
夕日の色だけが残った。ついさっきまで追っていた線を、目がまだ探した。もう一度点けば、今度こそ頷ける気がした。何に頷くかは、あとで考えればよかった。そう思ったところで、白いブラウスが動いた。
真美はゲーミングおっぱいをしまった。
真美は鞄を持って、そのまま教室を出ていった。僕は開いた教科書の端を押さえ、止まっていた宿題のやり直しに戻った。
からかわれたのだ。
あんなに慌てたところを見られてしまった。次に会ったら、何でもなかったような顔をしようと思った。宿題にはまだ空欄があった。教科書に載っている答えを写すだけなのに、同じところを何度も読み直した。
翌週から、真美は学校に来なかった。
「あー、松戸真美だが、引っ越すことになった。」
先生はHRで、珍しく目を伏せながら言った。
周りには、理由を知っている生徒はいなかった。
僕は真美の個別の連絡先を知らなかった。同じクラスで、毎日会う。教室に来れば、声を掛けることはできた。そのくらいの近さでも、教室の外ではどこにいるのか知らなかった。
顔を合わせずに済んだことに、僕は少しほっとした。何でもない顔をする練習も要らなくなった。でも、あれほど気にしていたのに、もう何も起こらないのは拍子抜けだった。真美に会ったら困ると思っていた気まずさだけが、僕のところに残っていた。先生が黒板に書いた文を、教科書から探した。授業は先に進んでいた。
それきり、真美には会っていない。
*
十二年たった二月十四日の夜、居間のソファに座っている僕に、妻がチョコの箱を差し出す。
「高校のとき、一回だけ本命渡したことあるんだよね」
箱を受け取ると、リボンの下に小さなカードが挟まっている。僕がそれを抜く間にも、妻は話を続ける。高校二年のときのことで、相手は同じクラスの男子だったという。放課後、昇降口で呼び止めて、用意していたチョコを渡そうとした。妻は少し声を低くして、その男子の返事をまねる。
「ごめん、受け取れない」
そう言われた、と妻は笑う。はっきり断られているのに、差し出した手を引っ込められなかったらしい。
「義理だよ、余ったから」
とっさにそう言って、笑って押し付けたのだという。
「余ってるどころか、それ一個しか持ってなかったんだけど」
妻は自分で言って、また笑う。手にチョコを持っているふりをして、僕のほうへぐいと突き出す。昔の自分の強引さが、今は自分でもおかしいらしい。僕も笑う。渡せたか渡せなかったかで分けるなら、渡せたほうだ。断られたあとの一言のほうがよほど勇気が要りそうで、僕にはとても言えそうにない。
「よくそんなこと言えたね」
カードを箱の脇に置き、リボンをほどく。妻は僕の隣に腰を下ろす。
「笑ってごまかすしかないじゃん、ああいうの」
僕の笑いが止まる。ふたに指を掛けたまま、夕日の入る教室が浮かぶ。電気は消えていた。僕は窓際の席に座っていて、真美が目の前に立っていた。ほかの席には誰もいなかった。教科書も宿題も夕日の色で、そこだけ違う色が動いていた。細い線の虹色が、左から右へ流れていた。
「見たくないんでしょ。もうおしまい」
軽い声だった。笑いが混じって聞こえた。僕は光ばかり見ていて、真美の顔を見ていなかった。顔を上げかけたところで色が消えた。その声は思い出せるのに、言ったときの顔は出てこない。僕には余裕たっぷりに見えていた。
あれも、そうだったのか。
僕の「違うよ」で、真美を傷つけたのかもしれない。僕の中では小さな訂正のつもりだったのに、そんなつもりかどうかを真美が知るはずもない。もしかして、と思い、ゲーセン聞いた「お母さん再婚してるから」の声も浮かぶ。あのゲーミングおっぱいを見せてもらったことを、自分のチャンスだったと考えて、惜しかったとも思う。自分に都合のいい考えだと分かっていても、うまく返事をした僕を考えてしまう。言えなかった一言を言って、そのあとも真美と話している僕が浮かぶ。
いや、あの日の真美は、自分を崩す試みをしていたのかもしれない。そして僕に、崩さないでほしかったのではないか。
「あなたは? そういうの、なかったの」
「……なかった」と僕は笑った。




