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短編小説

ぶ ん 殴 る !! 令嬢の拳は、5年分。

作者: おでこ
掲載日:2026/02/20


 「はぁ……」とため息が漏れた。


 足が一歩、前に出た。


 絹靴が大理石の床を踏む。硬い。冷たい。でも、揺れない。この床だけが、今この瞬間、確かなものだった。


 両足が肩幅に開く。ドレスの裾が広がった。


 ヴァネッサ(主人公)はゆっくりと、息を吸った。


 アルノルト(第二王子)の声が、貴族たちのざわめきが、息を呑む気配が──すべてが遠のいていく。残ったのは、自分の身体だけだった。


 重心が、わずかに落ちた。


 腰が少し沈んで、膝がほんのり曲がる。踏ん張れる。倒れない。それだけで世界が安定した気がした。ずっと忘れていた感覚だ。


 ドレスの下で、筋肉が引き締まった。


 太腿の内側に力が入る。腹の奥が固くなる。コルセットに締め付けられた胴の中心に、何かが灯るような感覚。五年間、どこかに押し込めていたものが、今ここで目を覚ました。


 呼吸を、吐く。


 吸わない。ただ吐くだけ。肺の中を空っぽにする。吐き切ったとき、身体の中に静けさが満ちた。


 右肩が、わずかに引いた。


 肩甲骨が背中をすべる感触。弓を引き絞るような。力が溜まっていく。


 腰の回転を、意識した。


 力は腕で出すのではない。幼い頃、父の書斎からこっそり持ち出した武術書に書いてあった。侍女に叱られながら読んだ、あの本のことを、なぜか今思い出す。腰が回り、その力が背骨を走り、肩へ、肘へ、手首へと流れていく。拳はその終着点に過ぎない。


 右の拳を、握った。


 手袋越しでも、手の甲の皮膚が張るのがわかった。指の骨が噛み合う。ぎゅっと固まる、この感触。グローブも包帯もない。薄い手袋一枚だ。それでも構わなかった。


 これは腕の力ではない、と思った。


 腕は通り道だ。力の源は背中にある。足裏から地面を踏んで、その力を腰で回して、背骨を通して、肩から肘へ、最後に拳の先に集める。下から上へ。地面の重さを借りるような感覚。


 心臓の音が、耳に響いていた。


 どくん、どくん、と。速くはない。落ち着いていた。怖くも、興奮してもいない。ただ、静かに集中していた。アルノルトの口が動いている。言葉が出ている。ヴァネッサには、もう聞こえなかった。


 (これが最後の我慢になる)


 静かに、そう思った。


 叫ばなかった。泣かなかった。怒鳴りもしなかった。


 ヴァネッサ・ミルフォードは、ただ静かに、全身の力を一点に集めた。




 ◇時は、少し前に遡る。




 今夜は、特別な夜のはずだった。


 婚約披露の夜会。アルノルト第二王子とヴァネッサ・ミルフォードの婚約を、貴族たちの前で正式に祝う場。そのはずだった。


 広間の奥、段上に置かれた二人掛けの王座がある。王家の紋章を背に、金と緋色の椅子が並んでいた。そこにアルノルトが座っていた。隣には──ヴァネッサではない女が、座っていた。


 伯爵家の娘、クロエ・ルーセル。栗色の髪に緑の瞳。柔らかな笑みを浮かべたまま、じっと前を向いている。


 ヴァネッサは、その王座の前に立っていた。


 召喚されたのだ。名前を呼ばれ、広間の中央まで歩いてきて、今、百人を超える貴族たちの視線を背中に受けながら、壇上の二人と向き合っていた。


 弦楽が止まっていた。楽団員たちが弓を下ろしたまま動かない。誰も笑っていない。誰も話していない。


 アルノルトが口を開いた。


「本日をもって、ヴァネッサ・ミルフォードとの婚約を解消する。新たな婚約者は、隣にいるクロエ・ルーセルだ」


 静寂が、広間を満たした。


 ヴァネッサは動かなかった。


 アルノルトはまだ続けた。壇上から見下ろしながら、整然と、まるで報告書を読み上げるように言葉を並べていく。令嬢には王妃としての器がなかった。温かさも社交性も、愛も持ちえなかった。努力が足りなかった。笑顔が作り物だった。私の気持ちを理解しようとしなかった。婚約者として、失格だった。


 言葉が降ってくる。


 冷たく、淡々と。


 ヴァネッサは聞いていた。


 聞きながら、五年間の記憶が積み重なっていった。走馬灯ではなかった。走馬灯は流れるものだ。これは、石が積まれるようなものだった。一つ、また一つと。


 殿下が別の女性と話すたびに飲み込んだ言葉。

 殿下に無視されるたびに浮かべた笑顔。

 侍女に八つ当たりした殿下を庇い続けた夜。

 「お前はつまらない」と言われて「精進いたします」と頭を下げた朝。

 「なぜ笑わないのか」と責められた日。笑っていたのに、だ。


 重なる。重なる。重なる。


 (あ)


 とヴァネッサは思った。


 これが、限界というものか。


 怒りではなかった。爆発でもなかった。ただ、ある一線が──長い年月をかけて積み上げてきた何かが、静かに、音もなく、折れた。


 そのとき、彼女の身体が動いていた。




 ◇時は、戻る。




 腰が回転した。


 溜めていた力が一気に動いた。肩甲骨が前へ押し出され、背中の力が肩へ走り、肘が振られ、ヴァネッサの拳がアルノルトの頬を捉えた。


 五年分の重さを乗せて。


 衝撃は、一瞬だった。


 手袋越しに伝わる、骨と骨がぶつかる硬い感触。それが手首を通り、肘を抜け、肩まで響いてきた瞬間、ヴァネッサの中で何かがほどけた。


 会場が、凍りついた。


 アルノルトが一歩よろめいた。口を押さえ、目を見開き、信じられないものを見る顔をしたのち、白目を向いた。


 誰も動かなかった。楽団も、貴族たちも、騎士たちさえも。


 世界が、一拍、止まっていた。




 ヴァネッサの耳に音が戻ってきた。


 波が打ち返すように、一気に。ざわめきが広がる。クロエが短く悲鳴をあげた。アルノルトが何か叫んでいる。騎士たちが動き始める気配がした。


 ヴァネッサは踵を返した。


 走らなかった。歩くには速すぎたが、走るには遅かった。身体が本能的に動いていた。喧騒から遠ざかるように、光から離れるように、人目の届かない場所へ。


 まるで時が静止したかのように、ヴァネッサだけが動いていた。

 


 廊下を抜け、庭園への扉を押した。


 夜の空気が頬を打った。


 冷たかった。四月の夜風は、まだ冬の名残を抱えている。ヴァネッサはその冷たさの中に立ち、はじめて自分の手が震えていることに気づいた。


 右手を見つめた。手袋の下が熱い。だが、痛みはない。


 震えは手だけではなかった。膝が、肩が、わずかに震えていた。怖かったのか。それとも、解放されたのか。どちらかわからなかった。


 噴水の音だけが聞こえた。


 石造りの噴水が月明かりの中で白く輝き、水の落ちる音だけが庭に満ちていた。宮廷の奥にあるこの庭園に、夜に来る者はほとんどいない。


 ヴァネッサは噴水の縁石に腰を下ろした。


 ドレスが汚れる。構わなかった。




「痛かったでしょ」


 声が聞こえた。


 振り向くと、男が立っていた。


 ルーカス・フォン・エスタート。公爵家の嫡男。王宮内で数少ない、王子と政治的に対等に渡り合える男だ。歳はヴァネッサとほぼ同じ。会場では常に壁際に立ち、話しかけられれば答えるが、自ら人の輪に入ることはほとんどない。


 ヴァネッサは彼のことを、顔と名前だけ知っていた。あとは、視線だけ。いつかの舞踏会で、何かを見透かすような目でこちらを見ていると気づいた、あの視線。


「……拳のことですか」とヴァネッサは言った。


「いや、心のほう」


 ルーカスは噴水の縁石から少し離れたところに立ったまま、夜空を見上げた。ヴァネッサのほうを見ていない。それが奇妙に、楽だった。


 責められると思っていた。あれほどの場で王子を殴ったのだ。貴族として、令嬢として、あってはならない行為だ。


 ルーカスは何も言わなかった。ただ、月を見ていた。


「……長かったですね」


 ヴァネッサは自分の声が、かすかに震えているのに気づいた。


「ええ」


 一言だけ答えたら、何かが緩んだ。


 涙が出るかと思ったが、出なかった。ただ、胸の奥の何かが、長い時間をかけてほどけていくような感覚だけがあった。コルセットが緩むような。積み重なっていた石が、静かに崩れ落ちていくような。


「五年間」とヴァネッサは続けた。自分でも予期しない言葉が出てくる。「笑い続けました。耐え続けました。家のために。国のために。誰かのために。それが私の役割だと思っていたので」


「知っています」


 ルーカスの声は静かだった。


「え」


「宮廷にいれば、見えます。本当に努力している人と、努力しているふりをしている人の違いは」ルーカスはようやくヴァネッサのほうを向いた。「あなたは本当に、努力していた」


 ヴァネッサは返す言葉がなかった。


 認められることに慣れていなかった。努力は当然のこととして消費され、不足を指摘されるためにあった。誰かが「努力していた」と言ってくれたことは、五年間、一度もなかった。


「……殿下は間違っています」とヴァネッサはようやく言った。「私は──」


「言わなくていい」


 ルーカスが遮った。穏やかに、しかし明確に。


「あなたが説明する必要はない。あなたは何も間違っていない」


 月が、雲の向こうに隠れた。庭が、少しだけ暗くなった。


「これからどうなるのでしょう」とヴァネッサは呟いた。「王子を殴りました。家の名前に傷をつけました。社交界では──」


「私が動きます」


 遮るように、しかし押しつけることなく、ルーカスは言った。


「強制ではありません」と彼は続けた。「ただ、私にはその力があります。使い方を選べる立場にある。あなたを傷つけることに力が使われるなら、そうでない方向に使うだけです」


 ヴァネッサはルーカスを見た。


 彼は嘘をついていない、とわかった。言葉が少なく、飾りがなく、ただそこにある。救おうとしているのではない。ただ、隣にいようとしている。その違いが、今夜のヴァネッサには、何よりも大きかった。


「……なぜ」


「五年間、見ていたので」


 ルーカスは再び月のほうを向いた。


「もう少し早く動けばよかったと思っています。ただ、あなたが自分で限界を決める前に手を出すのは、あなたへの侮辱になると思って」


 ヴァネッサは、はじめて口元がほどけるのを感じた。


 笑顔ではない。仮面でもない。ただ、少しだけ、力が抜けた表情。


「……侮辱、ですか」


「あなたは弱くない。助けが必要だったのではなく、ただ一人で抱えすぎていただけだ」


 噴水が、月明かりの中で光る。水の音が続く。


 ヴァネッサは右の拳を、そっと膝の上に置いた。まだ熱が残っていた。痛みも残っていた。でも、それは確かに自分の拳で、確かに自分が選んだことで、誰かのためではなく、ただ自分のために、はじめてしたことだった。


「一人ではなかったのですね」とヴァネッサは言った。


「そうです」


 ルーカスの答えは短かった。


 でも、それで十分だった。




 夜が明けていく。


 東の空が、少しずつ白んでいた。庭園の木々が輪郭を取り戻し、噴水の水が金色に染まりはじめる。


 ヴァネッサは縁石の上に座ったまま、夜明けを見ていた。肩の力が、いつの間にか抜けていた。五年間、一度も抜けたことのない力が。


 何が変わったわけではない。婚約は破棄された。殿下を殴った事実は消えない。これから何が起こるか、まだわからない。


 でも、空が明るい。


 それだけが、今のヴァネッサには十分だった。


 ルーカスがまだ近くにいる気配がした。何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ、いた。


 ヴァネッサは空を見上げる。


 拳の痛みがじわじわと広がり、あの瞬間が夢ではなかったと教えてくれた。

読んでいただきありがとうございます!


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