第九話 渋滞の重さ
午前十時を過ぎた頃。
行軍の空気が、はっきりと変わり始めた。
田茂木野の東方。
山肌は次第に傾斜を増し、雪は深くなる。
歩くだけなら、まだ行ける。
だが――
問題は、橇だった。
最初に止まったのは、一台。
引き手が足を取られ、
橇が斜面に食い込む。
声が飛び、数人が集まる。
引き直し、押し上げ、ようやく動く。
誰も、大事だとは思わなかった。
だが、次の一台。
さらに、その次。
橇が止まるたび、
列が詰まる。
詰まった列は、後ろへと波及する。
前が進まない。
後ろは、理由も分からず止められる。
渋滞だ。
道幅の狭い雪山では、
それは致命的だった。
止まれば、冷える。
誰もが、それを知っている。
だから、焦る。
だから、無理をする。
橇を引く兵の足取りが、明らかに重くなっていく。
俺は、歩数を数えながら、歯を食いしばった。
――史実でも、ここだ。
行軍が、目に見えて遅れ始める地点。
――――――――――
午前十一時半頃。
小峠の山頂に到達した。
一つ目の、明確な目標地点。
列が、ようやく落ち着く。
簡単な午食が配られた。
だが、
包みを開いても、箸が進まない者が多い。
握り飯は、すでに凍り始めている。
口に運んでも、噛み切れない。
* * *
――本来なら、ここだ。
史実では、半分も食べられた者は稀だった。
だが、今回は違う。
俺は、事前に指示していた。
出発前、各員の懐に、
握り飯を一つ、必ず入れておくこと。
外ではなく、身体に近い場所に。
理由は、説明していない。
「そうしておけ」とだけ伝えた。
* * *
懐から、包みを取り出す兵がいる。
布を解く。
まだ、柔らかい。
完全ではない。
だが、噛める。
飲み込める。
木村が目を丸くする。
「……食えます」
その声が、周囲に伝わる。
次々と、懐に手を入れる兵たち。
静かなざわめきが広がる。
俺も、自分の懐から一つ取り出した。
一口。
冷たい。
だが、
身体の奥に、確実に熱が落ちていく。
十分だ。
これは、命を繋ぐための食事だ。
全員が、満足に食べられたわけじゃない。
だが、「何も食えなかった者」は、
確実に減った。
それだけで、この先の一時間は、違ってくる。
その頃からだ――
風が、変わった。
さっきまで頬を撫でるだけだった風が、
横から叩きつけるようになる。
雪が、舞い始める。
細かく、鋭く、視界を削る。
空の色が、分からなくなる。
青だったはずの上が、
いつの間にか、白と灰の境目になっていた。
「……来たな」
思わず、声が漏れる。
擬似天候。
一時的な高気圧が生む、偽りの安定。
晴れているように見えて、
実際には、嵐の前触れだったのだ。
このあと、必ず荒れる。
為すすべもなく、
俺は、ただ空を見上げていた。




