第八話 断られた道案内
午前七時四十分。
最初の集落、幸畑に到達した。
人の営みが、まだ残っている場所。
白い世界の中で、そこだけが現実の延長にある。
列が緩む。
足を止める兵も出る。
ここまでは、計画通り。
天候も良好だ。
村人たちは、こちらを見て、ざわついた。
年配の男が一人、
周囲をうかがいながら、恐る恐る前に出てくる。
「これから、天気が崩れます」
訛りのある声。
だが、言葉は慎重で、強くはなかった。
「この時期は、山が荒れやすい。
昔から、そう言われてきました」
旧暦の「山の神」の日。
そうした言い伝えがあることは、俺も知っている。
だが、それが迷信かどうかは、
この場では、誰にも断じられない。
「余計なお世話かもしれませんが……
戻られたほうが、よろしいかと」
一拍置いて、男は続けた。
「……どうしても行かれるなら、案内を出しましょう」
声は低く、控えめだった。
その場の空気が、一瞬だけ張りつめる。
神成大尉は、すぐに首を振った。
「ありがたい申し出だが、
我々は演習中だ」
丁寧な口調。
しかし、判断は揺るがない。
「地図と方位磁針がある。
案内は不要だ」
村人は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、こちらを見る目だけが、
不安を残していた。
列は、再び動き出す。
人の道を離れ、山へ向かう。
地図の線と、磁針の指針だけを頼りに。
「こんなに空は晴れているのに……」
「心配しすぎだろう」
「案内料目当てじゃないのか」
そんな声が、方々から聞こえてくる。
俺は、何も言えなかった。
少尉という立場では、
この場で口を挟む理由が、足りない。
* * *
――史実でも、そうだった。
案内は、断られた。
ここで引き返すという正解も、
道を知る者を頼るという正解も、
どちらも選ばれなかった。
* * *
背後で、集落の気配が消えていく。
戻れる場所が、一つ、減った。
選べる選択肢が、一つ、閉じた。
ただ、それだけのことだ。
俺は、歩き出せずにいた。
まだ早い。
まだ、理由が足りない。
ここで声を上げても、
それは臆病にしか聞こえない。
目的地の「田代」まで、残り十八キロ。
道中は、険しい山道である。
――――――――――
昼が近づくにつれ、空気が変わり始めた。
徐々に、風が体温を奪いはじめる。
雪が視界が削りはじめる。
ゆっくりと、だけど確実に世界が変ろうとしていた。
さっきまで見えていたはずの頭上の青は、
どこかへ、引き上げていた。
空は、まだある。
だが、遠い。
雲は輪郭を失い、
その高さすら、もう分からない。
「……来るな」
俺は、そう口にした。
だが、空は、
何も答えてくれなかった。
最悪は、
必ず、兆しから始まる。
立ち止まるわけにはいかない。
だが、見逃すわけにもいかない。
俺は、歩きながら数える。
歩数。
時間。
呼吸の乱れ。
すべてが、
引き返すための材料だ。
規律は、前に進ませる。
判断は、立ち止まらせる。
そのどちらが、
今日、この山で正しいのか。
八甲田山。
この山は、人の都合で難易度を変えてはくれない。
そして、その「最悪」が訪れることを、
俺だけが知っている。




