第七話 白の中へ
午前中の八甲田山は、静かだった。
風雪は軽く、
雲の切れ間から、時おり青空が覗く。
気温は、氷点下六度。
数字だけを見れば、
この季節としては、決して異常ではない。
風は弱く、
雪も荒れていない。
この時点では――
まだ、山は牙を剥いていなかった。
――――――――――
二列側面縦隊。
列は長く、静かに伸びていく。
前方に山口少佐・神成大尉率いる前衛、その後に各小隊が続き、
最後尾に「行李隊」と呼ばれる運搬隊が橇をひく。
秩序だった並びだ。
誰が見ても、
訓練としては、申し分のない出だしだった。
最初のうちは、足取りも軽い。
雪は締まり、視界もある。
誰もが「行ける」と思っている。
* * *
史実でも、そうだった。
出だしは順調なのだ。
空は澄み、風は弱く、視界も悪くない。
だからこそ、判断が遅れる。
後に「擬似好天」と呼ばれる現象だ。
一時的な高気圧に覆われ、
あたかも天候が安定しているかのように見える。
晴れ。微風。穏やかな空。
それらは嵐の前の静けさにすぎない。
この当時、
まだ、その正体は知られていなかった。
だが――
俺は、知っている。
この「八甲田山雪中行軍遭難事件」をはじめ、
数多くの犠牲を経て――
現代の登山家の間に、広く周知されていったからだ。
この先、
気圧は急変する。
風は荒れ、雪は横殴りになり、
空と地面の境界は消える。
そして、最悪が訪れる。
「行けそうだ」と思えてしまう。
それが、いちばん危険なのだ。
* * *
俺は、列の流れを意識しながら歩く。
視線は前ではなく、左右、そして後ろ。
足元。
呼吸。
間隔。
すべてが、判断材料だ。
――――――――――
酒井徳次郎軍曹が、
いつの間にか、俺の歩調に合わせて並んでいた。
「少尉殿」
声は低く、他には聞こえない。
「今のところ、問題はありません」
「分かっている」
俺は頷く。
「だが、最初に崩れるのは、足だ。
異変があれば、すぐ知らせてくれ」
酒井は、一瞬だけ俺を見た。
そして、短く答える。
「了解」
それでいい。
少し後方で、木村が歩いているのが見えた。
歩幅は小さいが、無理はしていない。
背負子の位置も、昨夜調整した通りだ。
目が合う。
木村は、ほんのわずかに頷いた。
その視線の先には、
山裾に点のように見える人家があった。
言葉はいらない。
準備は、確かに伝わっている。




