第六話 出発
出発の朝は、静かだった。
号令も、気合も、いつもと変わらない。
ただ、寒気だけが、昨日より一段深くなっている。
空は、澄んでいた。
雲ひとつない、冬の青空だ。
あまりにも静かで、
このまま何事も起こらないのではないかと、
一瞬、錯覚しそうになる。
だが、吐く息は白く、
足元の雪は音もなく軋んでいる。
装具を整え、列に並ぶ。
総勢、二百十名。
第五連隊、青森方面雪中行軍隊。
その中の、ほんの一部。
俺が直接、目を配れる分隊は、
十数名に過ぎない。
守れる範囲は限られている。
寒空に吐く息は白く、
すぐに散った。
列に並ぶ兵たちの格好を、
俺は改めて見る。
軍服に外套。
脚絆に足袋。
――薄い。
現代の感覚で言えば、
スキー場にすら行けない装備だ。
前世の知識だが、
防寒とは「層」なのだという。
空気を挟み、重ね、
逃がさない。
だが、この時代に、
そんな考え方はない。
この時代の防寒とは、
「気合」なのだ。
だからこそ、
できる限りの手をまわした。
靴下は重ね履き。
木綿の下に、可能な限りの布を挟む。
足首は、きつく締めすぎない。
ズボンの内側にも、一枚。
動きを妨げない範囲で、
冷気を遮る層を作っている。
見た目は、大して変わらない。
だが、体感は違う。
これは、俺だけじゃない。
分隊には、同じ工夫を伝えてある。
劇的な防寒ではない。
だが、「何もない」よりは、
確実にましだ。
――――――――――
神成文吉大尉の声が、
全体に響く。
その列のさらに前方、
一段高い位置に立つ将校が一人いる。
山口鋠少佐だった。
この雪中行軍隊全体の指揮官。
神成大尉の上官にあたる。
とはいえ、
今回の雪中行軍において、
実際に現場を指揮するのは神成大尉となる。
山口少佐は、
その全体を統括する立場だ。
その存在だけで、
全体の緊張が一段、引き締まっていた。
「これより、雪中行軍演習を開始する。
営所を発ち、
田茂木野を経て、
鳴沢を越え、
田代へ向かう。
各員、規律を守り、
命令に従え」
短く、無駄のない言葉。
いつもの神成大尉だ。
部隊の規律を守り、
上官の如何なる命令にも従う。
軍人として正しい。
間違っていない。
だが、この山では、
それだけでは足りない。
「明治三十五年一月二十三日。
午前七時頃。
第五連隊、
八甲田山雪中行軍ヲ開始ス」




