第五十六話 光指す道へ
応接室での会談を終え、
俺は、三人の指揮官を見送ったあと。
独り、冬の夕暮れに染まる中庭に残った。
「おら、そこー、声が出てないぞー」
練兵場からは、第五連隊の筆頭教官に就任した、
酒井徳次郎軍曹の、低く通る号令が響いている。
「はい、それではこれで治療は終了です、今後については……」
医務室では、永井源之助軍医が、
あの日新湯で学んだ「段階的復温」を、
医学的に体系化し、切断手術のない冬季医療を標準化させていた。
俺の変えた「奇跡」は、
確実に、史実が描いた未来を書き換えていた。
そんな光景を眺めながら、
心の奥底では、
一年前の、あの日から、
消えることのない不安が渦巻いている。
(……俺は、歴史を変えてしまった……)
史実で、八甲田山雪中行軍遭難事件という惨劇は、
多くの尊い犠牲と引き換えに、後世へ数多の教訓を残した。
だが、この世界はどうだ。
未来知識によってもたらされた「無敵の部隊」という錯覚。
科学的な軍備の拡充。
それらが、いつか、
さらなる巨大な破滅を招くのではないだろうか。
そんな孤独な恐怖が、冷たい風と共に、
俺の背中を撫でる。
――――――――――
「小林中尉殿」
不意に、背後から声が聞こえた。
振り返ると、そこには、軍帽を片手に駆け寄ってくる
木村勇伍長の姿があった。
一年の時を経て、
下士官となった彼の姿は、
かつてないほど精悍に、逞しく見えた。
「どうした、木村、明日から休暇だろ?」
「はい、二週間ほどの休暇、
口添えもあり、無事に許可をいただけました」
木村は、深々と頭を下げてきた。
「それはよかった」
俺は、数日前、木村から提出された、
休日申請を通しただけである。
「それで、どうしても、
これだけはお伝えしたくて」
なんの打算もない、
純粋な瞳が俺を見上げてきた。
「俺、明日から、
故郷の親父を温泉に連れていきます!」
「……」
「あの日、新湯で、少尉殿に約束した通り、
親父に、腹一杯、あったかい飯を食わせて、
ゆっくり湯に浸からせてやるんです」
「……あ、あぁ」
一年前の記憶が呼び起こされる。
八甲田の極寒の雪――
田代新湯の命を繋ぐ湯煙――
そして、仲間たちの生きてる声が――
「そしたら、また、
少尉殿の下に必ず戻ってきますから!」
木村は、春の陽だまりのような笑顔を見せた。
史実の記録の、どこを探しても、
彼の名は残っていない――
もし、俺がいなければ、あの日。
名もなき「百九十九名」の一部として、
人知れず雪の下に消えていた。
そんな、男だ――
そんな彼が、今、
笑顔で未来を語っている――
その頬には、血潮が通い――
その手には、熱がこもっていた――
(……ああ、そうか)
歴史のうねりや、国家の行く末なんて、
俺が一人で背負う必要はないんだ。
俺が、この世界に来て、
必死に抗い、守り抜いたもの。
その答えが、今、目の前にある。
歴史に残ることのない、
一人の兵士の、ありふれた人生。
この笑顔を守れたのなら。
俺の「我儘」にも、
確かな意味があったのだ――
「……待っているぞ、木村」
去っていく木村の背中を見送りながら、
俺は自然と口元を綻ばせていた。
八甲田から吹く風は、
もう、冷たくなかった。
――――――――――
俺は、地平のむこうに視線を向ける。
かつて「死の山」と恐れられた嶺。
その頭上は――
冬の空なのに、どこか春めいて見えた。
「よし、行くか……」
俺は頭上を見上げ、
ずっと見守ってくれているだろう、
この身体の、本来の持ち主に声をかけると。
俺たちは、
雪解けの始まった営舎の中を、
光の指す方へと、歩き出した。
(八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く~ 完)
最後まで、お付き合いくださり、ありがとうございました。
今後の予定は近況報告にて、ご確認ください。




