第五十五話 八甲田が刻んだ未来
明治三十六年(1903年) 一月 二十三日
あの八甲田から、一年。
青森歩兵第五連隊の中庭に立つ、俺の耳に、
雪を蹴る力強い軍靴の音が響いていた。
整然と訓練をこなす兵たちの足元は、
俺が提唱し、福島少佐が体系化に成功した、
『重着』に基づく、
最新の冬期装備で固められている。
一年前――
あの吹雪の中で命懸けで証明した「知恵」が、
今、教範という名の軍紀として、
目の前の兵たちの血肉になっていた。
これが――
歴史を変えるということなのかもしれない。
劇的な瞬間ではなく。
それらは誰かの足元に、静かに根を張っていた。
「……よし」
今日は、あの連合行軍を共にした指揮官たちが、
一年の節目として青森営舎に集う日だ。
――――――――――
「おお、見違えたな、小林中尉」
応接室で最初に出迎えたのは、
山口鋠中佐だった。
一年前より、さらに重厚な威厳を纏っている。
だが、その笑顔だけは、
あの八甲田で肩を叩いてくれた、あの温かさのままだ。
「昇進、おめでとう」
「中佐こそ、ご昇進おめでとうございます」
「ははは、お互い様だな」
山口中佐は屈託なく笑った。
「で、だ……」
山口中佐は笑みを引き締め、
一段低い声で切り出した。
「単刀直入に言おう」
「私は近く、新設される『冬季兵站網構築』の
全権を任されることになった」
中佐は、まっすぐ俺の目を見て言う。
「噂は聞いております」
「翌年――日露の決戦が来る」
その一言が、室内の空気を変えた。
「満州の凍土は、八甲田より過酷だ。
だが、我々には今、あそこで得た『答え』がある」
中佐の目に、静かな確信が宿っていた。
「中尉、共に来い、
八甲田で証明したことを、
今度は大陸の戦場で証明する番だ」
要は、引き抜きだ。
だが、強制ではなく――
招待として。
それが、山口中佐という人の流儀だった。
――――――――――
「中佐、勝手に小林を連れていかれると、
ウチが困りますな……」
苦笑いと共に現れたのは、神成文吉少佐だ。
一年の間に、その立ち姿は、さらに洗練されている。
不沈の指揮官――
今や、兵たちの間で、
そう呼ばれる神成少佐の名は、
第八師団を超え、帝国陸軍全体に知れ渡っている。
だが、俺が知っているのは――
あの長い沈黙の中で、静かに目を閉じ、
一人で決断を背負い続けた、
あの横顔だ。
「神成少佐も、ご昇進おめでとうございます」
「貴官こそ、中尉になってようやく、
表立って話し相手として連れまわせるな」
神成少佐は、相変わらずの仏頂面のまま、
だが、確かに目元を緩ませた。
「神成少佐」
山口中佐が、
一段低い声で話しかける。
「なんだ」
少佐は、短く聞きかえした。
「来年、少佐の部隊は、どこへ」
一瞬、部屋が静まる。
「満州だ」
迷いのない一言だった。
「第八師団の兵を、一人でも多く、生きて帰す。
それが、八甲田で俺たちが証明したことの、次の答えだ」
俺は、小さく頷いた。
――――――――――
「……遅れて失礼した、
教範の最終校正に手間取りまして……」
弘前から駆けつけた福島泰蔵少佐が、
小冊子を片手に入ってくる。
八甲田の後――
史実より、一年早く体系化された福島大尉の『冬期行動指針』。
それは、軍の戦闘能力を根底から書き換えたと極めて高く評価された。
福島大尉は、異例の抜擢で少佐へ昇進を果たした。
「福島少佐も、昇進、おめでとうございます」
「ああ、小林中尉も、おめでとう。
ところで、丁度いいところに例の指針の件だが……」
福島少佐は、俺を見るなり目を輝かせる。
「田代新湯で語った『空気の層』と『拠点の自己完結性』、
あれを核心に据えた指針が、
今、全軍に配布されようとしている……」
小冊子を広げ、一点を指す。
「ここを見てくれ。
この一節が、満州の凍土で、
どれほどの命を救うか計算してみたんだが……」
福島少佐の目には、研究者の炎が宿っていた。
田代新湯の囲炉裏端で、
夜通し地図を突き合わせた、あの夜と同じ目だ。
この男は――
あの夜から、
ずっと、前しか見ていない。
「ああ、それについては……」
「福島少佐、昇進の挨拶より教範の話が先か」
山口中佐が苦笑する。
「これが、仕事というものです」
福島少佐は悪びれる様子もなく、小冊子を広げた。
「まったく……」
やれやれと肩を竦める山口中佐の横で、
神成少佐が小さく笑った。
昇進を祝う言葉が交わされた、
この小さな部屋に――
あの八甲田で生き残った四人が、
今、揃っている。
――――――――――
「とりあえずは、小林中尉の昇進と、
我らの再会を祝して」
山口中佐が、
応接室の引き出しから、
一本のブランデーを取り出した。
「勤務中ですぞ……よろしいのですか」
そう言いながら、神成少佐は、
人数分のグラスに琥珀色を静かに注いでいく。
「ほぉ、これはまた珍しい年代物ですな……」
福島少佐は、
グラスの中身より、
ラベルを興味深げに眺めていた。
来年、日露の決戦が来る。
その先には、
さらなる大きな嵐が待っている。
だが――
この四人が、それぞれの持ち場で、
それぞれの「答え」を持って立っているなら。
(……悪くない)
そう思えた。
「では」
山口中佐が、グラスを掲げる。
「八甲田が刻んだ、未来へ――」
短い、乾杯の言葉。
だが、その一言には――
あの吹雪の中、
死なずに済んだ二百五十五の命が、
静かに宿っていた。
グラスが、合わさる。
澄んだ音が、
室内に一瞬だけ響き――
消えた。
――――――――――
俺は、窓の外、
遠く白く霞む八甲田の山並みを見た。
あの山は、今年も変わらず、
静かにそこに在る。
だが――
あの山が飲み込もうとした、
二百五十五の命は、
今、それぞれの場所で、
それぞれの未来を、生きている。
歴史は、変わった。
では、次は――
(俺たちの番だ……)
グラスを傾ける。
琥珀色の熱が、
喉の奥へと、
静かに落ちていった。




