第五十四話 生きたことの勲章
明治三十五年(1902年) 二月 五日
八甲田山の凱旋から、ちょうど一週間。
青森営舎の医務室は、
史実のような「切断手術を待つ悲鳴」に包まれることはなかった。
そこにあるのは――
永井源之助三等軍医が、
俺の現代知識を「新しい冬期衛生管理」として書き留めるペンの音。
そして、五体満足で退院していく兵たちの、
晴れやかな笑顔だった。
俺――
小林守は、
営舎の中庭から、あの地獄を共にした面々の「現在」を、
静かに眺めていた。
――――――――――
まず、俺の目に映ったのは、
杖をつきながらも、中庭を歩く山口鋠少佐の姿だった。
史実では、救出のわずか二日後に、
命を落としたはずの男が、
今、穏やかな冬の陽光の中に立っている。
鳴沢の崖で「置いていけ」と叫んだ、
あの顔が脳裏に浮かぶ。
少佐は、
俺の視線に気づくと、
わずかに目を細め、小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
「私の命は少尉殿に救われたも同然だ」
別れ際、
少佐は力強く俺の肩を叩いていった。
あの鉄のような手の重みが、
まだ、肩に残っている。
――――――――――
次に、
俺の耳に届いたのは、
兵舎の方角から響いてくる、
低く、よく通る声だった。
「靴下の湿りが、貴様の命を削る。
指が凍ったとき、後悔しても遅いぞ!」
酒井徳次郎軍曹だ。
後進の兵たちに、
かまくら型雪濠の構造を叩き込んでいる。
あの吹雪の中で、
俺の命令を一言の迷いもなく実行し続けた背中が、
今、後進に向けられている。
その隣では――
「火は、こうやって起こすんだ。
湿った枝でも、コツさえわかれば、必ずつく」
木村勇上等兵が、
年下の兵に火起こしを教えていた。
雪の中で「親父を温泉に連れて行く」と笑っていた、
あの顔と、今の顔が重なる。
俺は、あれこれと説明を求める福島大尉に、
現場で実践した彼らから直接話を聞くよう仕向けた。
決して、サボりたかったわけじゃない……。
ただ――
この知識は、
俺一人のものであってはならない。
そう、思っただけだ。
――――――――――
弘前隊の案内人たち――
七勇士の姿は、
もう、ここにはない。
青森隊の兵たちによる、
手厚い看護を経て、
全員が、無事に、
熊ノ沢の家族の元へ帰還していった。
彼らは、村総出で、
英雄として迎えられたという。
歴史の闇に置き去りにされるはずだった、
名もなき功労者たちが、
今、それぞれの人生を誇り高く歩み始めている。
(……よかった)
ただ、それだけを思った。
――――――――――
「……見事なものだな、小林少尉」
背後から声をかけてきたのは、
神成文吉大尉だった。
史実では――
雪の中で絶命したはずの男が、
凛とした軍装に身を包み、
俺と並んで八甲田を見上げている。
「貴官の地図が……
知識があったからこそ、
我々は、白の迷走を断ち切ることができた」
神成大尉の手には、
俺が描いたボロボロの等高線地図があった。
擦り切れ、濡れ、何度も折り畳まれた、あの紙。
第一野営地で、兵たちの顔色を読んだ夜。
炭小屋への決断を前に、
大尉が目を閉じた、長い沈黙。
崖の縁で震える指が、
この紙の一点を指し示した、あの瞬間。
全部、この紙の上にある。
「……そうですね」
俺は短く答えた。
言葉は、それ以上、出てこなかった。
――――――――――
中庭の雪は、
少しずつ溶け始めていた。
山口少佐の「信望」
神成大尉の「指揮」
井上中尉の「調整」
福島大尉の「兵学」
永井軍医の「医術」
そして――
酒井軍曹の「実務」
木村上等兵の「技」
あの地獄の中で、それぞれが、
それぞれの場所で輝いていた人たちが、
今、それぞれの「次」へと歩き始めていた。
ただ——
彼らが『生きてこそ』持てる輝きを、
消させたくなかった。
それだけだった。
――――――――――
だが――
俺の心にある、微かな不安だけは、
冬の雪解けのようには消えてくれない。
二百五十五名、全員生還。
俺が変えたこの「奇跡」は、
歴史という大河を、どこへ押し流していくのか。
二年後に控える、
日露の決戦――
第一次……第二次と続く、
世界大戦――
今回の八甲田の奇跡が、軍部に慢心を生むのか。
それとも、多くの命を救う礎となるのか。
(……俺は、歴史を変えてしまった)
答えは、まだ、どこにもない。
ボロボロになった等高線地図を、
俺は、静かに折り畳んだ。
今は、ただ――
生き残った、
仲間たちの鼓動を、
この耳に感じていたかった。
あの吹雪の中で消えるはずだった、
二百五十五の命が――
今日も、ここで、確かに息をしている。
それだけで十分だった。
歴史の新たな歯車は、
静かに、
回り始めたのだから――




