第五十二話 暖かさが牙を剥く
一月二十八日、午後六時。
俺たち連合部隊は、
ついに「馬立場」の丘へと差し掛かる。
* * *
史実において、
数多の将兵が『遺体』となって発見された場所だ。
彼らは、ここまで辿り着きながら、力尽きた。
* * *
だが、今、その同じ土を、
二百五十五名の生きた軍靴が踏みしめている。
気温は、零下十度のあたりまで緩んでいた。
極限の日々に比べれば「暖かい」とすら言える気温だ。
だが、この温もりが、新たな罠となった。
二百名を超える兵士たちに、
何度も踏み固められた雪が、圧力で融けて、再び凍る。
あっという間に、雪道は、
磨き上げられた氷の『滑り台』へと姿を変えていった。
――――――――――
「……ッ、足元が滑るぞ! 橇を支えろ!」
神成文吉大尉の鋭い怒声が飛んだ。
山口鋠少佐らを乗せた、重い救急橇。
それが氷の斜面上で制御を失い、
じりじりと雪道の横に流れていく。
谷底が、すぐそこにある――
「少尉! このままでは、行李隊が全滅しますぞ!」
酒井徳次郎軍曹が、
滑る足元を必死に踏ん張りながら叫んだ。
小隊ごとの交通整理を試みているが、
それでも、橇の滑落は止まらない。
人の足に固められた雪道が滑る――
「酒井軍曹、行李に積んである『荒縄』をすべて出せ!」
「はっ」
「木村、橇の引き手、全員に荒縄を配れ!」
「荒縄……これを、どうするんですか?」
木村が戸惑いながらも動く。
「靴の上から、土踏まずに縄を幾重にも巻き付けろ!
橇の摺り木にもだ」
軍靴の底は平坦で滑りやすい。
固めつけられ、凍り付いた氷の上を歩くのに無力だ。
だが、荒縄を巻けば、
その凸凹が氷の表面を噛む。
それだけで足元が、別物になる――
「少佐を落とすな、ロープを引け!」
青森隊の兵と、弘前隊の兵が、
咄嗟に同じロープを掴んで踏ん張った。
連隊の垣根など、どこにもない。
氷に足を取られながら、
互いの体を支え合いながら、
一歩、また一歩と、呪われた丘を越えていく。
「……よし、動けるぞ」
荒縄を巻いた足が、
確かに、氷を『噛んだ』瞬間だった。
――――――――――
そして半刻。
「酒井軍曹……?」
俺たちが丘の頂に立った時、
不意に、酒井軍曹が足を止めた。
次の瞬間、
風が、ふと凪いだ――
「……っ」
吹雪の幕が、引かれるように薄れていくと、
視界が、ゆっくりと開いていく。
眼下には、
白く塗りつぶされた山裾が広がっていた。
その先へ、先へと続く雪原が、
夜の藍色に沈んでいる。
稜線の向こうに見える漆黒の海は、
空との境を曖昧にしながら、長く横たわっていた。
陸奥湾だ――
波ひとつない、静かな冬の海。
その水面が、
雲の切れ間から差し込む月明かりを受けて、
鈍く、銀色に光っている。
そして、その海岸線に沿うように、
橙色の粒が、点々と並んでいた。
俺たちは、陸奥湾の方向を、
しばらくの間、無言で見つめていた。
「少尉、青森の灯だ……」
吹雪の合間、遠く眼下に、
小さな、だが確かな光が瞬いていた。
文明の証――
帰るべき場所の色だった。
「ああ……本当に、みんなで帰れるんだな……」
五日前、青森営舎を出発した朝が、
もう遠い昔のように思えた。
「……いや、ここからが、一番危ない」
史実を思い出せ――
第五連隊は、
あと、一・五キロを目前にして壊滅したのだ。
勝鬨を上げるのは、営舎の門をくぐってからだ。
「小峠までの下り坂。
この、氷の道を抜けるまで、気を引き締めるんだ」
「了解であります」
酒井軍曹の声に迷いはなかった。
俺たちの足が、
また、一斉に動き始めた。
――――――――――
午後十一時。
部隊は難所を抜け、
ようやく「小峠」へ到達した。
誰もが、疲労の極致にある。
湿った軍服に、体温を奪われていく。
それでも、二百五十五名の目に、
絶望の色はない。
あと少し――
「田茂木野まで下れば、
村人が、青森の営舎が待っているぞ!」
神成大尉の声が、深夜の雪原に響きわたる。
脱落者、依然としてゼロ――
史実では多くの命を飲み込んだ「八甲田の闇」を、
今、ここで、俺たちは塗り替えている。




