第五十一話 大軍は、雪に詰まる
午前九時。
田代新湯を出て、
すでに、二時間が経っていた。
二百五十五名の大部隊は、
最後尾が先頭の背中を見失うほどに、
雪原へ伸び切っていた。
「小林少尉……これが、貴官の言っていた『摩擦』か……」
最前列を歩く福島泰蔵大尉が、苦渋の表情で振り返った。
「……数が、これほどまでに牙を剥くとは……」
このまま、鳴沢の難所に突っ込めば、
列は千切れる。
孤立した弱者から順に、
八甲田の闇が呑んでいくだろう。
「一旦、この先の『平沢の炭小屋』で、話し合いを……」
――――――――――
平沢の炭小屋は三日前と変わらぬ姿で、
そこにあった。
吹き積もった雪に、なかば埋もれながらも、
頑固に、確かに、そこに立っている。
屋根の稜線に、煤けた壁。
あの夜、扉を押し開けた瞬間に風が消えた。
あの感覚――
「酒井軍曹、木村! 俺たちの築いた雪濠を掘り起こせ!」
「了解!」
それから、数分――
やわらかな新雪を退けるだけで
炭小屋のまわりにドーム状の雪濠群が姿を現した。
三日前、俺たちが死闘の末に築いた拠点だ。
「……これは」
福島大尉は、絶句していた。
「三日前に作ったものが……まだ、生きてるのか?」
「入口を塞いでおけば、内部の空間は保たれます。
そして数分、新雪を掘れば、休憩所として利用できます」
「自らの刻んだ足跡が、復路の命綱になる……、
いや、まて……ということは……」
福島大尉の声が、わずかに震える。
「帰り道を想定し、休憩所まで、
あらかじめ用意していたということか……」
「……まあ、そういうことです……」
正直に言えば偶然の産物だが、わざわざ否定することもない。
俺は、内心で苦笑しながら、
福島大尉を炭小屋の戸口へ促した。
――――――――――
小屋の中は、暖炉の火が赤く揺れていた。
山口少佐、神成大尉、福島大尉ら、
幹部級の顔ぶれが並ぶ中、俺も、末席に腰を落とした。
煤と、湿った木の匂いが鼻をつく。
「このまま鳴沢へ向かえば……、
後方の行李隊と負傷者の橇が孤立しますぞ」
将校たちが、口々に現状を報告し始める。
全員、同じ問題を見ていた。
俺は地図に指を置き、静かに言った。
「二百五十五名を一列で繋ぐのを止めましょう。
五十名単位の『塊』に分割して、時間差をつけて行軍する」
一瞬、小屋の中が静まる。
「……分割だと?」
「列が繋がっていなければ、統制が取れんぞ」
疑惑の声が重なった。
「一本の長い鎖は、
一箇所が止まれば全体が止まります」
俺は続ける。
「ですが、独立した塊に分けて、
各々に間隔を持たせれば、停滞は塊の内側で収まります」
ゆっくりと周りに説明をする。
「前の集団が難所を越えるまで、後ろは平地で待つ。
あえて『ゆとり』を設けることで、全体の流れは止まらない」
「一塊、五十名……たしかに、
その規模なら伝令の往復も容易だな」
神成大尉が、小さく頷く。
「各塊に指揮官を置けば、
個別のトラブルにも即応できますな」
福島大尉が、うんうんと顎を引く。
「よし、小林少尉の策を採ろう」
山口少佐が、
力強く膝を叩いた。
その一声で、場の空気が変わった。
「ここからは、ただの行軍ではない」
少佐は立ち上がり、
居並ぶ将校たちを見渡した。
「我々の『組織的な行軍』を、
八甲田の山に見せつけてやろうではないか」
――――――――――
それから半刻の後――
第一塊が、炭小屋の前を離れていく。
怒号はない、焦りもない。
規則正しい軍靴の音だけが、静かに遠ざかっていく。
第一塊の最後尾が白い霞に溶けるのを確かめてから、
第二塊が、間を置いて動き出す。
第三塊、第四塊が続く。
急がない。焦らない。
それだけで列は乱れなかった。
後方分隊の俺たちは、その動きを静かに眺めていた。
「……本当に、動いてますね」
酒井軍曹が、腕を組んで隣に立っている。
「……きれいだ」
木村が、白い息を、ゆっくりと吐いた
かつて怒号が飛び交い、
停滞と焦りで自滅しかけた列が、
今、確かなリズムで、鳴沢の壁へと向かっている。
……見ているか、小林守。
俺たちは、まだ、諦めていないぞ。




