第五十話 暁の出撃 ~二百五十五の大行進~
一月二十八日、午前七時。
田代新湯の朝は穏やかだった。
数日前まで殺意を帯びていた大気は、
零下十度前後まで緩んでいる。
極限の零下二十五度を知る俺たちには、
その冷気は、もはや優しいものにしか思えなかった。
「行くのだな、兵隊さん」
田代新湯の入り口で、舎主の長内文次郎氏が、
神成大尉を名残惜しそうに見つめていた。
「おかげさまで、
負傷者の容体も安定しました。
これ以上、貴殿の備えを削るわけにはいきません」
神成文吉大尉は、
深々と頭を下げた。
規律の権化だったその背中に、
今は、人への重厚な感謝が宿っている。
「ところで、我々が去った後、貴殿はどうされる。
一人で、この雪の中に残るのは、あまりに危険ではないか」
長内氏は、日焼けした顔をほころばせて首を振った。
「心配はいりませんよ、大尉殿。
私は元々、この山で冬を越す予定なのですから」
彼は、太い梁を指差した。
「自分一人が食いつなぐ分なら、
奥の蔵に米も味噌も十分に隠してあります」
そういうと笑顔を浮かべる。
「兵隊さんに分けたのは、
あくまで『客分』のための備蓄ですからな」
「そうであったな、失礼した。
貴殿こそ、この八甲田の真の守護者だ」
神成大尉は、あらためて頭を下げた。
「二百を超える皆様がやってきた時は、
最初こそ、肝を冷やしましたが……」
長内氏の声が、少しだけ和らぐ。
「皆さんが温泉で命を繋ぎ、こうして元気に帰っていく。
田代の宿の主として、
これほど誇らしいことはありませんな」
満面の笑みで大きく手を振る長内氏を背に、
神成大尉は、腹の底から声を張り上げた。
「総員、出発準備! 列を整えよ!」
大尉の号令が、
駒込川の谷底に響き渡った。
――――――――――
青森歩兵第五連隊、二百十名。
弘前歩兵第三十一連隊、三十七名。
随行案内人、および記者、八名。
――総勢、二百五十五名。
史実では、決して交わることのなかった二つの部隊が、
一本の巨大な鎖となって動き出した。
先頭は、青森隊の手厚い看護により、
活気を取り戻した『七勇士』ら、案内人たち。
続いて弘前隊の精鋭、三十七人。
山口少佐や、大蔵大尉ら、
負傷者を乗せた救急橇を、
青森隊の本隊が護送する。
最後尾には、重い物資を背負った
行李隊が続いた。
だが、行進が始まって間もなく――
俺たちは、行軍隊の大きさ『そのもの』に、
おもわず顔をしかめていた。
「止まれッ、前がつかえているぞ!」
「後ろ、列を詰めろ、離されるな!」
怒号が飛び交う。
それでも、列は遅々として動かない。
宿の細い出口という一点に、
人間と、橇と、荷物の重さが集中する。
そして「渋滞」が発生する。
先頭が一歩止まれば、
その停止は、後ろへ後ろへと伝わり、
最後尾に届く頃には数十分の足踏みに膨らんでいた。
逆に、先頭が動き出せば、
遅れを取り戻そうと後続の兵が駆け出す。
止まり、急ぎ、また止まる。
余計な体力だけが、雪の上に溶けていった。
先頭が宿を出てから、
最後尾の行李隊が門をくぐるまで――
一時間近くを空費していた。
「……これは厄介だな」
整わぬ一本道の雪路。
隊列が長くなるほど、
統制が失われる。
昨日までの二百十名の行軍ですら、
綱渡りだった。
そこに、四十五名が加わることで、
行軍の難度は、指数関数的に増えていた。
「小林少尉、これでは日が暮れてしまうぞ」
橇を引く兵たちの荒い息遣いを聞きながら、
井上徳蔵中尉が歩み寄ってきた。
「鳴沢の急坂を前に、
列が二キロ以上に伸び切っています。
前と後ろで、もはや意思の疎通が取れていません」
俺は振り返った。
雪に埋もれた田代新湯の門前では、
長内氏が、まだ一人立ち、大きく手を振り続けている。
その姿が、白く霞む雪の中に小さく、小さく見えた。
「なにか、手を打たねば、どうにもなりません」
「……ふむ、神成大尉にも声を掛けてみるか」
そう言い残すと、井上中尉は踵を返し、
本隊へ戻っていった。
――――――――――
午前八時。
ようやく最後尾の行李隊が宿を離れた。
「ふぅ……」
見上げる上空の雲は厚いが、
おだやかに雪は降り続けている。
その風には、もう狂気を感じられなかった。
ゆるやかな雪原であるなら、
このまま、問題なく行軍は成り立つだろう。
だが、俺たちの向かう先は『鳴沢』の絶壁。
寒波でも、吹雪でもない――
俺たちの行く手を阻む「最後の壁」は、
二百五十五名という、組織の重みそのものだった。
精神論でも、規律でも動かせない、この「摩擦」を――
どう断ち切るか。




