第五話 規律は、命を守らない
神成文吉大尉に呼び出されたのは、翌朝のことだった。
詰所の奥。
地図と書類が整然と並べられた机。
その前に立つ背中は、微動だにしない。
体格は大きくない。
だが背筋は真っ直ぐに伸び、
長年、軍の中でその姿勢を保ってきたことが分かる。
「小林守少尉」
振り返った神成大尉の目は、鋭すぎず、緩みもない。
年の頃は四十前後といったところか。
短く整えられた髪。
剃り跡の残らない顎。
感情を外に出さない、軍人らしい顔だった。
将校用の軍服には皺一つなく、
その佇まい自体が、この場の空気を引き締めている。
「はい」
「最近、分隊内で独自の判断基準を共有していると聞いた」
来たな、と俺は思った。
告げ口か。
井上中尉経由か。
どちらでもいい。
遅かれ早かれ、こうなる。
「事実です」
即答した。
神成大尉の眉が、わずかに動く。
「理由を聞こう」
低く、落ち着いた声。
怒りはない。
だからこそ、逃げ場はなかった。
「撤退基準を設けました」
一瞬、空気が変わる。
「撤退、だと?」
「はい」
視線を逸らさず、続ける。
「天候、視界、行軍速度、凍傷者の有無。
いずれかが一定のラインを超えた場合、引き返す判断をします」
神成大尉はすぐには答えなかった。
机上の地図に視線を落とす。
「少尉」
やがて静かに言う。
「それは、演習の目的に反する」
予想通りだった。
「演習は、困難な状況下でも任務を完遂するためのものだ。
途中で引き返す前提で行うものではない」
正しい。
軍人として、正しい考えだ。
だからこそ、俺は一呼吸置いた。
「……承知しています」
「ならば、なぜだ」
問いは短い。
「雪山は、任務の都合を聞きません」
視線が戻る。
「規律を守っても、
判断を誤れば、人は死にます」
はっきりと言い切った。
ここで言葉を濁す意味はなかった。
――――――――――
沈黙。
長いようで、短い時間。
神成大尉は俺を叱責しなかった。
声を荒げることもない。
「少尉」
「はい」
「君は、規律を軽んじているわけではない」
一拍。
「だが、信じていない」
胸に刺さる言葉だった。
否定はできない。
俺は、規律よりも、
その先に起こる結果を知っている。
「……はい」
それが精一杯だった。
神成大尉は、深く息を吐く。
「分隊内での共有は、黙認する」
思わず顔を上げる。
「だが」
視線が鋭くなる。
「全体の指揮に影響を与える行動は許可しない。
あくまで、少尉個人の責任の範囲で行え」
この行軍の大綱を定めたのは、
さらに上の大隊長、山口鋠少佐だ。
神成大尉は、現場と上層部、その両方を背負っている。
重い言葉だった。
分隊の「各自判断」という名目の許可。
同時に、責任の切り離しでもある。
「了解しました」
敬礼を返す。
神成大尉は、それ以上何も言わなかった。
――――――――――
詰所を出たあと、
廊下で井上徳蔵中尉とすれ違った。
軍服の襟元を整えた井上中尉は、
一瞬だけ足を止める。
「……無茶をするなよ」
低い声。
叱責ではない。
気遣いだった。
「はい」
短く答え、俺は思い切って声をかける。
「中尉殿」
懐から紙束を取り出す。
数日でまとめた簡易資料だ。
地図と呼ぶには心許ない。
等高線も曖昧で、距離も不正確。
だが、何もないよりはいい。
「行軍予定地周辺の地形と、
地元民から聞いた話をまとめました」
「……正確なのか?」
「いいえ」
正直に答える。
「数日分の情報です。
冬期の踏破経験もありません」
一拍置いて続ける。
「ですが、田代平周辺は起伏が多く、
視界を失うと方向感覚を失いやすいこと。
それと、田代新湯が
分かりづらい場所にあることだけは、
共通して聞いています」
井上中尉は紙束を受け取り、目を落とす。
事前に用意されていた地図は、
営所から田代へ向かう一本線が引かれただけの簡略図だった。
「一度、演習で通っている」
「行程は単純だ」
そんな認識があったのだろう。
平時の八甲田なら、それで足りた。
廊下に、風の音が遠く響く。
「……なるほど」
それだけ言って資料を畳む。
「上には?」
「要点だけ、報告しています」
嘘ではない。
だが、すべてではない。
「準備が足りないのは、
お前の責任じゃない」
その一言が、胸に残った。
「……無茶はするな」
同じ言葉。
だが、意味は違って聞こえた。
井上中尉は歩き去る。
廊下の奥で小さくなる背中に、
俺は自然と敬礼を返していた。
――――――――――
夜。
分隊の寝所で、
酒井徳次郎軍曹が声を潜めて言った。
「……大尉殿に、呼ばれましたか」
外套を肩に掛けたまま、壁にもたれる酒井。
刻まれた皺が、年季を物語っている。
「呼ばれた」
それだけで、通じた。
酒井は静かに顎を引く。
「少尉殿の判断は、現場では妥当です」
「……だが?」
「大きな山ほど、
命令も、理屈も、聞いてはくれません」
「……そうだな」
短く頷く。
規律は、俺たちを守らない。
守れるのは、決断だけだ。
そして、その責任は俺が背負う。
八甲田山。
最悪が訪れる日まで、
もう、時間は残されていなかった。




