第四十九話 それぞれの答え
一月二十七日、深夜。
田代新湯の母屋には、
囲炉裏の熱が、まだ静かに残っていた。
板間では、
毛布にくるまった兵たちが、
肩を寄せ合うようにして眠っている。
あちこちから重なる寝息だけが、
夜の底で、かすかな波のように満ちていた。
――――――――――
神成文吉大尉が、
一人、囲炉裏のそばに座っている。
膝の上には軍帽。
火に照らされた横顔。
疲労を背中に滲ませながらも、静かだった。
「小林少尉。少し、付き合え」
「はい」
囲炉裏を挟んで向かい合うようにして、
俺は、腰を下ろした。
「……よい、静けさだな……」
火を見つめたまま、ぽつりと言った。
「死人の静けさではない、
明日を生きる者たちの力強い静けさだ……」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜる。
「今夜、分かった気がする」
神成大尉は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「任務を達成することが、
当然、指揮官の務めだと思っていた……」
囲炉裏の火を見つめる目が、少しだけ細くなる。
「だが、違う……。
あたりまえのことだが、兵は数ではない。
一人一人が、生きているのだ……」
そこで一拍。
「いつの頃からか、忘れていたようだ……」
――――――――――
小屋の外では、
今も雪が吹き荒れている。
きし、と梁が小さな悲鳴をあげる。
「少尉」
「はい」
「お前は最初から、それらを見ていたのか」
一瞬の沈黙。
大尉自ら、一歩踏み込んできた問いだ。
軽く流していい質問ではない。
「見ていた、というより……」
俺も、火を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
未来を知っていた。
史実を知っていた。
それは事実だ。
八甲田で誰が倒れ、どれだけの者が死に、
生き残った者がどんな傷を負うのか。
「知っていた、でも……、
現実は、まるで違ったんです……」
一度、息を飲む。
「名前のある一人一人に顔があって、声があって、
寒さに震えて、腹を空かせて……」
「それでも、皆、前に進もうとしていた」
囲炉裏の火が揺れる。
「俺が知っているだけの話じゃ、なかったんです……」
「そうか」
神成大尉は、短く息を吐いた。
「ならば、ただ、知っていただけではないな……」
「……え?」
「仮に、お前が何かを知っていたとしても、
まわりに信じさせねばならん……」
「信じさせても、次は動かさねばならん。
動かしても、それを、継続させなければ意味がない……」
囲炉裏の火が、また爆ぜる。
「お前は、それを、やり遂げたのだ」
神成大尉の、そんな一言が、
すとんと真っ直ぐ俺の胸に落ちてきた。
「俺は……」
板間に眠る兵たちへ目をやった。
毛布から覗く手。
壁際に揃えられた靴。
どれも、ごくありふれた、
平時の青森兵営の景色と一緒だった……。
けれど、この景色を、
俺は、これまでと同じようには見えなかった。
あの手は、
まだ、箸を持てる。
あの足は、
まだ、自分の家まで歩いて帰れる。
あの指は、
まだ、母の手紙を、開けることができるのだ。
「小林少尉、お前が投じた一石は、
この、八甲田だけで終わらぬやもしれんぞ……」
「え……?」
「この行軍で得た知識、経験を、
生きて持ち帰れば、雪中行軍のあり方を……」
「いや、軍の在り方を変えるかもしれん」
神成大尉は静かに続ける。
「営舎へ戻ったなら、私は、上へ報告する」
「何が、兵を生かしたのかを……、
何が兵を殺すのかを……伝えねばならぬ……」
神成大尉の目には強い意志が込められていた。
そこに、もう、重圧につぶされそうな彼の姿はなかった。
「福島大尉も、また、協力してくれるでしょう……」
俺は苦笑しながら言った。
「ああ、あれもまた……残す側の人間だからな……」
神成大尉も、また、口元を緩ませた。
――――――――――
それから、しばらく、
俺たちは囲炉裏の火を眺めていた。
「少尉」
「はい」
「指揮官としてではなく、
神成文吉として言わせてもらう……」
神成大尉は、まっすぐ俺を見た。
「ありがとう」
「……いえ」
かろうじて、それだけ答えた。
「……まだですよ、感謝をされるのは、
全員無事に青森営舎の門をくぐるまでは……」
「……違いない」
神成大尉は口元を緩ませていた。
田代新湯へ辿り着いた夜も、
俺たちはこうして、囲炉裏の前で向き合った。
あの夜は「生き延びること」を語った。
今夜は――
生き延びた命を、どこへ返すかを、語った。
――――――――――
夜の帳はすっかり降り、八甲田は深い藍色に沈んでいた。
外ではなお、風が鳴っている。
だが、その咆哮は、
もうこの母屋の内側にある熱を揺るがせはしない。
囲炉裏の火。
眠る二百五十五名の寝息。
乾きつつある軍靴。
湯小屋から昇る白い湯煙。
それらすべてが、
ここまで積み上げてきた知恵の結晶だった。
俺は、小さく呟いた。
「明日、帰るぞ……みんなで……」
そして、囲炉裏の火が、
ぱちりと爆ぜた。
■ 第六章、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
弘前三十一連隊との合流、七人の案内人の救助、
そして「第八師団連合部隊」の結成。
バラバラだった歴史の糸が、ついに一本の鎖として繋がりました。
「明日、帰るぞ……みんなで……」
■ ここからは、完結まで、一気に駆け抜けていきます。
そして、3月27日。
この物語は、最終話を迎えます。
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これから、物語はクライマックスに向かいます。
それでは、みなさま、また次章でお会いしましょう。




