第四十四話 弘前三十一連隊、合流
明治三十五年(1902年)一月二十七日、早朝。
八甲田の山は、
なおも猛威を振るっていた。
空も、谷も、山肌も、
ことごとく吹雪に呑み込まれ、
ただ白だけが、世界を埋め尽くしている。
だが――
田代新湯の母屋は、
それらとは無縁の温かな活気に満ちあふれていた。
――――――――――
「少尉殿! 湯煙の勢い、さらに強めました!」
木村上等兵が、
煤で頬を黒く汚しながらも、
晴れやかな顔で駆け寄ってくる。
源泉の熱に、
焚き木の煙をうまく乗せることで、
意図的に、
高く立ち上らせた白い狼煙――
氷点下二十度を下回る世界で、
その蒸気は、凍てついた空へ突き刺さるように伸び、
巨大な、白い柱となって、谷底の在処を告げていた。
俺は、神成大尉とともに外套を羽織り、
吹雪の中へ出る。
肺へ吸い込んだ空気は、
冷たいを通り越して痛かった。
「……来ると思うか、小林少尉」
神成大尉が、
白くたなびく湯煙を見上げながら訊いてくる。
「福島大尉の弘前隊なら、
必ず、この道標を見つけます」
* * *
史実では――
福島泰蔵大尉の率いる弘前歩兵第三十一連隊は、
この日、田代付近へ到達しながらも、
宿を発見できなかった。
吹雪による視界喪失。
そして、雪中露営に限界を感じての帰営だ。
* * *
だが――
今、この谷底には、
空を貫くほどの湯煙が上がっている。
まだ見ぬ弘前隊。
その統率と練度は後年にも語り継がれるほどだ。
ならば、この白い狼煙を見落とすはずがない。
この生きた道標を、
見つけられぬはずがない。
そう、信じたかった。
――――――――――
その時だった。
風の唸りの向こうから、
かすかに――
だが、確かな音が届く。
「……一、二! 一、二!」
雪を踏み締める音。
統制の取れた掛け声。
吹雪の幕が、
一瞬だけ裂ける。
その向こうに人影があった。
互いの身体を麻縄で結び、
一列の数珠繋ぎとなった隊列。
先頭には、
地元の案内人。
その背後に続く将校たち。
福島泰蔵大尉の率いる、
弘前歩兵第三十一連隊だった。
そして、彼らは、
田代新湯を前にして足を止めた。
言葉もなく――
ただ、目の前の光景を見つめている。
吹雪の谷底に建つ温泉宿。
煙突から昇る黒煙。
空へ突き上がる巨大な湯煙。
そして――
二百を超える兵たちが、
整然と雪濠を築き、炊事の煙を上げ、
すでに、ここを「生きるための拠点」へ変えている光景。
――――――――――
「……な、なんだ、これは……」
案内人の一人が、
凍りついた声で呟いた。
「幽霊か……?
いや……生きているのか……!?」
「青森歩兵第五連隊、雪中行軍隊である!」
神成大尉が一歩前へ出る。
そして、吹雪を裂くような声で名乗った。
「弘前隊、福島大尉とお見受けする!
貴官らの到着を待っていた!」
福島大尉が、
よろめくように一歩、前へ出た。
背の高い男だった。
軍人としてよく鍛えられてはいるが、
神成大尉のような剛健さとは違う。
すらりと縦に伸びた体つきに、
鋼を細く引き延ばしたような力強さを感じさせる。
その軍帽には雪が積もり、
外套は氷に覆われ。
睫毛は白く凍りつき。
その姿から、
弘前隊の行軍の過酷さも、また察せられた。
「……第五連隊……だと……?」
掠れた声だった。
その視線が、
俺たちの背後へ向く。
温泉で身体を戻し、
乾いた衣服をまとい、
温かな粥を手にした兵たち。
雪中遭難の果てにあるはずの絶望は、
そこにはなかった。
あるのは、
地獄のただ中で築き上げられた、
人の営みだけだった。
「……この地獄の中で……、
……これほどの人数が……無事なのか……?」
「小林少尉!」
神成大尉の声が飛ぶ。
「案内人の方々を、中へ収容しろ!」
「はッ!」
「酒井軍曹!
微温湯を準備しろ!」
「木村!
人数分の粥を追加だ!」
号令とともに、
田代新湯と青森第五連隊が、一斉に動き出した。
湯を運ぶ者。
毛布を抱えて走る者。
雪を払い、肩を貸す者。
そこにはもはや、
昨日まで遭難寸前だった部隊の姿はない。
生き延びた者たちが、
今度は、他者を救うために動く。
確かな軍隊の姿があった――
福島大尉は、なお呆然としたまま、
その光景を見つめていた。
「この拠点は……一体……?」
「説明は後です、大尉殿」
俺は福島大尉のもとへ歩み寄り、
その肩へ、手を添えた。
「まずは身体を温めましょう」
――――――――――
「我々には、
あなたたちを救うための、知識と準備があります」
弘前三十一連隊の兵たちを――
そして、
案内人たちを――
次々と、田代新湯の内へ導いていく。
張り詰めきった緊張。
凍りついた理性。
ここまで、辛うじて保っていたそれらが、
ぬくもりに触れた瞬間。
一気に溶け落ちていく。
「……助かった……」
「本当に……俺たち、助かったんだな……」
俺の手を握った瞬間、男たちは、泣き崩れた。
史実では、死亡者ゼロ、
八甲田山の雪中行軍を成功させた、
弘前三十一連隊。
だが、その、
栄光のなかで「七勇士」と呼ばれながら、
悲劇的な代償を負わされることになる。
七人の案内人たち。
だが、
今、この瞬間――
彼らは生きている。
まだ、後遺症となるほどの傷も負っていない。
間に合ったのだ。
ほんの少し、歴史より早く、
辿り着けただけで救えるものがあったのだ。
その僅かな差で、今、運命が変わった。
――――――――――
明治三十五年、一月二十七日、早朝。
今、
この瞬間――
八甲田の歴史は塗り替えられた。
青森・弘前、両隊。
二百五十五名。
全員、田代新湯に無事到着。
八甲田の吹雪に埋もれた谷底にたたずむ、
湯煙をあげる、我らの要塞。
田代新湯。
そんな奇跡の光景の中心に――
俺は、立っていた。




