第四十三話 希望の狼煙
深夜。
田代新湯の母屋、一階。
板間には、乾いた毛布にくるまった兵たちが、
肩を寄せ合うようにして眠っていた。
囲炉裏の火が、ぱちり、と爆ぜる。
その小さな音だけが、
ここがまだ、人の世の内側であることを教えてくれる。
部屋では数多くの兵が横たわっていた。
数刻前まで、吹雪の中で、
死の気配に追われていた者たちとは思えぬほど、
その寝息は深く、穏やかだった。
土間の隅には――
脱ぎ置かれた軍靴と、乾かされる外套。
板間の奥には――
白粥を炊いた名残の匂いと、
薪のぬくもりが、まだ薄く残っている。
生き延びたのだ。
その事実が、
囲炉裏の火より静かに、
けれど確かに、
この母屋の中を満たしていた。
――――――――――
俺は、囲炉裏のそばで、
神成文吉大尉と向かい合っていた。
大尉は湯呑みを両手で包み、
立ち上る湯気をじっと見つめている。
その顔からは、かつての厳しい張りつめ方が、
いくらか抜けていた。
「小林少尉」
神成大尉が、低く言った。
「お前がいなければ、我々は、
ここまで辿り着けなかっただろう……」
俺は首を振る。
「俺一人の力ではありません」
「大尉の御決断があって、酒井軍曹が兵をまとめ、
木村たちが手足のように動き……」
「皆が、最後まで互いを見捨てなかった。
俺は……少しばかり、理を知っていただけです……」
「その理が、命を繋いだのだ」
神成大尉は、
囲炉裏の火へ、視線を落としたまま言った。
「軍規も、気力も、指揮も大事だ……」
「だが、それだけでは越えられぬ山があるのだな、
……今回の演習では思い知らされたよ」
火が、ぱちり、と弾ける。
その赤い揺らぎが、
大尉の頬へ深い陰を落とす。
「私は、軍人だ。
今も、規律の厳守が間違いだとは思わん……」
低い、揺るがぬ声だった。
「だが、今日、あの鳴沢で、
お前の声を聞いた時、初めて思い知った……」
大尉は、俺を見る。
「生きて帰ることも、
また、指揮官の務めなのだとな……」
胸の奥が、熱くなる。
この時代には玉砕を尊ぶ空気が強い。
だが、この八甲田山雪中行軍演習が、
そこに、一石を投じることができたなら――
未来は、
変わるかもしれない。
「……ありがとうございます」
多くの想いを飲み込んで、
ようやく、俺は、それだけを返した。
「礼を言うのは、こちらだ」
神成大尉は言った。
「お前は、私に恥をかかせなかった」
「それどころか、部下を連れて生き残るという、
もっとも重い務めを思い出させてくれた」
俺は、返事を失った。
史実が、
脳裏をよぎったからだ。
* * *
本来なら、この人も、
雪の中で倒れていたはずだった。
この田代新湯で、
兵たちの寝息を聞くことも、
囲炉裏の火を前に、湯呑みを握ることもなく――
* * *
そう思うだけで、
足の裏に残っていた寒気が、
遅れて震えになって這い上がってきた。
「小林守少尉……」
「……はい」
「お前は、何者だ」
声は静かだった。
詰問ではない――
だが、あまりにも真っ直ぐで、
目を逸らせぬ問いだった。
「雪の理を知りすぎている。
地形を読みすぎる。
兵の戻し方も、湯の使い方も、異様に的確だ……」
「…………っ」
俺は、口を開けなかった。
囲炉裏の火が、また爆ぜた。
「無論、今、ここで無理に聞き出すつもりはない。
聞いたところで、私に分かるとも限らん」
神成大尉は、小さく息を吐いた。
「だが、一つだけ、確かなことがある。
お前は、この部隊を救うために、その知を使った」
大尉の言葉に、
俺の喉の奥が熱く詰まりそうになる。
「……感謝する」
大尉はそう言って、
湯呑みの残りを飲み干した。
それ以上は問わぬ、ということだろう。
信じる、と――
軍人らしい、
不器用で重い言い方で。
――――――――――
しばらくの沈黙のあと、
どちらからともなく、席を立った。
「うっ……」
引き戸を開けた瞬間、
外気が刃のように肺へ食い込んでくる。
外は、依然、氷点下二十五度。
肌に触れるというより、
骨へ、じかに噛みついてくる感触だった。
だが、風は、昼ほどではなかった。
一歩、田代の宿の外に出て、
俺は空を見上げる。
八甲田の夜空の下には、
母屋の煙突から、黒い煙が力強く昇る。
駒込川沿いの湯小屋からは、
白い湯煙が、闇を裂くように高く吹き上がっていた。
硫黄の匂いを帯びた蒸気は、
極寒の空気の中で、たちまち霜をまとい、
月明かりを受けて、青白く、銀の柱のように輝いている。
それは、
ただの湯煙ではなかった――
これは、雪山の只中に立つ、巨大な狼煙だ――
「……見事なものだな」
神成大尉が、その白い柱を見上げたまま呟く。
「これなら、たとえ夜目でも見失うまい」
「今夜のうちに、
できるだけ目立つように焚かせています……」
俺も湯煙を見上げる。
「母屋の火も、湯小屋の湯気も、絶やさぬように……」
「弘前隊のためか……」
神成大尉は、何も言わずに湯煙を見つめていた。
* * *
史実では――
明日、この付近で弘前隊は目標を見失い、
吹雪の中、露営を強いられる。
そして田代新湯を目指すことを諦めて、
青森営舎に、
直接、向かうことになる。
* * *
だが、
この世界では違う――
今の田代新湯には火がある。
白い湯煙は、夜空へ向かって、
なおも高く昇り続ける。
それは、ただ、
空へ消えていく煙ではない。
吹雪に閉ざされた、
この、八甲田のどこかで――
今、なお、雪を踏み、
歯を食いしばり、進み続ける者たちへ向けて。
ここに火がある。
屋根がある、人が生きている――
そう告げる、生きた狼煙だった。
「明日で、決まります」
俺は、湯煙の先の闇に向かっていう。
「弘前隊がここへ辿り着けば、
この雪中行軍は、本当の意味で生還へ変わる」
「……そうだな」
神成大尉は、まっすぐ前を見たまま頷く。
「誰一人欠かすことなく、
全員で、生きて営舎へ帰るぞ」
その言葉は、ついこの間まで、
俺一人だけが胸の奥で握りしめていた願いだった。
夢物語じみた、無茶な理想だった。
だが、それが、今は、
神成大尉の口から発せられる。
指揮官の言葉は、部隊の意志となり、全体が変わる。
その事実に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……はい」
夜空の下。
白く輝く田代の湯煙は、
まだ見ぬ戦友たちを救うための光となって、
八甲田の闇を照らし続けていた。
そして、
この光を目指して、
明日、もうひとつの八甲田山の物語が――
辿り着く。
第五章も、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
知恵を絞り、力を合わせ、白の地獄を歩き続けた末に――
青森第五連隊二百十名、ついに「田代新湯」へ辿り着きました。
さて、ここまで来たら、あとは楽勝……?
――いえ、この物語、そう簡単には終わりません。
次章より、いよいよ最終局面。
田代の湯煙の中で、彼らを待つ「運命の出会い」。
それが引き金となり、巻き起こる、新たな波乱――。
続きが気になってくださった方、彼らの歩みを応援してくださる方、
下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に塗り替えて、
ぜひ、雪中行軍隊の皆に「勲章」を授与してあげてください!
また、感想のひと言も、執筆の大きな力になります。
それでは、次回、お会いしましょう。




