第四十二話 田代の湯
田代新湯の母屋から、少し離れた湯小屋。
もうもうと立ちのぼる湯煙が、
八甲田の闇を白く塗りつぶしていた。
「いいか、いきなり湯船に入るな!」
酒井徳次郎軍曹の怒声が、
湯気の中へ鋭く響きわたる。
「まずは微温湯で足を戻せ!」
温泉の熱を前にして、
兵たちは、我を忘れて飛び込みたくなる。
冷え切った身体を、
一刻も早く湯へ沈めたい。
その焦りは、
誰の胸にもある。
だが、誰も逆らわなかった。
八甲田の極寒をくぐり抜けた、今となっては、
急な温めが命取りになり得ることを、
もう、この場の誰もが、身に染みて知っていた。
「次の班、よし!
温まった者から順に入れ!」
酒井軍曹の声を合図に、
一人、また一人と兵たちが湯へ入っていく。
白く曇る湯気の中、痩せこけた頬がほどけ、
凍てついていた肩から、ようやく力が抜けていく。
「……ああ……」
「生き返る……」
その声は小さかった。
だが、
湯面に落ちる吐息の、一つ一つが、
生へ、戻ってきた者たちの声であった。
――――――――――
「少尉殿」
酒井軍曹が近づいてきた。
頬も眉もまだ白く霜を残しているが、
その目には、はっきりとした落ち着きが戻っている。
「指示どおり、統制しております。
見てください、あの地熱のところを」
促されて目を向けると、
湯小屋の脇、地熱の届く一帯に、
濡れた軍服や脚絆、靴下がずらりと並べられていた。
蒸気に包まれ、湯の熱を受けて、
布地から、じわじわと湿り気が抜けていく。
「温泉で身体を戻し、
地熱で衣服を乾かす――見事なものですな」
酒井軍曹は低く笑った。
「この人数の濡れ物を人の手で乾かすとなれば、
薪も手間も、どれだけ要ることやら」
「ああ……」
俺も頷く。
囲炉裏だけでは、とても追いつかない。
だが、山の熱そのものを借りれば、
それが、一息に片づいていく。
八甲田に殺されかけた兵たちを、
今度は、八甲田の懐に眠る熱が救っている。
なんとも皮肉で、
そして、ありがたい話だった。
「明日には、履いてきた靴下も、
替えの靴下も、乾いたものを履けましょうな」
「服が湿っておらぬ。
それだけで兵の心持ちはまるで違います」
現場を知る男の言葉には、
飾りがない。
だからこそ重い。
乾いた布一枚。
それだけのことが、
雪中では命の重さに直結するからだ。
――――――――――
少し離れたところで、
木村勇上等兵が一人、
雪濠の仕上げに手を入れていた。
「木村」
声をかけると、
彼は慌てて振り向いた。
「お前も休め。
さっきから働きづめだろう」
「……あ、はい」
木村は手を止めたが、
すぐには腰を下ろさなかった。
照れくさそうに鼻の頭をこすり、
湯小屋の方へ目をやる。
「なんだか……じっとしていられなくて」
「どうした」
「この湯の匂いを嗅いでたら、
故郷の親父を思い出しまして」
「親父さんを?」
「はい」
木村は、遠くを見るような目になった。
「農作業で、腰と、脚をやっちまってるんです。
いつも、痛ぇ痛ぇ言いながら、それでも畑に出る人で……」
湯煙が流れ、
彼の横顔を白く隠した。
「だから、その……」
一拍おいて、木村は笑った。
「いつか金が貯まったら、
こういう湯に連れていってやりたいと思ってたんです」
「温かい飯を食わせて、
ゆっくり、身体を伸ばさせてやりてぇなって」
そこにいたのは、
死地をくぐった兵ではなく、
家族を思う、ただの若い男だった。
「まさか軍の演習で、先に、
こんな立派な湯に出くわすとは思いませんでしたが……」
そう言って、木村は、
凍傷寸前まで赤くなった手を見下ろした。
「俺、この任務が終わったら、
親父を絶対に温泉へ連れていきます」
その言葉に、俺はすぐには返せなかった。
木村という一人の兵が、歴史の闇へ呑まれず、
こうして、未来の話を口にしている。
それだけで、
胸の奥が熱くなる。
「……必ず連れていってやれ」
ようやく、そう言った。
「その日のために、
俺たちはここまで生き抜いたんだ」
「はいっ」
木村は、はっきりと頷いた。
「そのためにも、火の番は任せてください。
今夜も、ちゃんと熾しておきます」
「頼んだぞ」
「任せてください」
声だけは、もう、
すっかり元の若さを取り戻していた。
――――――――――
酒井軍曹に、木村上等兵。
ほかの兵たちも、また、
この極寒の八甲田に、
すこしずつ馴染み始めていた。
ただ、耐えるだけではない。
どう凌ぐか。
どう戻すか。
どう次へ繋ぐか。
その工夫が、もう、
兵たち一人一人の身体に入っている。
もし、皆が無事に帰営できれば――
この行軍に加わった者たちは、
寒地の恐ろしさと、その越え方とを知る、
得難い兵となるだろう。
それこそが、この雪中行軍の、
本当の実りであるはずだったのだ。
人を失わず、生きて経験を持ち帰るならば――
(……あと少しだ)
視線の先では――
身体を温め、乾いた衣服へ着替えた兵たちが、
生気を取り戻した顔で雪濠へ入っていく。
そこに死相はなかった。
あるのは、湯気に頬を緩める顔と、
明日の帰路を信じる目だけだ。
今宵、田代新湯は、
二百十名の命をつなぎ止める、
熱の砦となった。
俺は思う。
ここまで来たのだ。
もう、届く。
俺たちは、八甲田を越えられる。
――――――――――
だが、その田代の温もりの外では、
なおも風が、白い闇の中を彷徨っていた。
今、この時も――
同じ山のどこかで、
なお、命を懸けて、雪を踏んでいる者たちがいる。
まだ、誰も知らぬ、
もうひとつの八甲田山の物語が、
吹雪の中を彷徨っていた――




