第四十一話 兵站は眠らない
田代新湯の母屋では、
囲炉裏の火が、
ぱち、ぱちっと――、
規則正しく薪を爆ぜさせていた。
外では、なお、
八甲田の暴風雪が荒れ狂っている。
気温は、氷点下二十度を下回っていた。
戸の隙間を鳴らす、
風の音だけでも、
外が、いかなる地獄か窺い知れる。
だが、田代新湯の宿。
この厚い木壁の内側だけは違う。
火の音がある――
人の息がある――
ここは、死ではなく、生の側にある場所だった。
――――――――――
母屋二階の一室は、
薪の匂いと、囲炉裏から立ちのぼる、
煙の気配に満ちていた。
永井源之助三等軍医が、
山口鋠少佐の脈を測りながら。
静かに口を開いた。
「先ほどの温め方の手順ですが、
あれは、実に、理にかなっておりますな……」
「ええ」
俺は静かに頷いた。
「いきなり熱湯に浸かれば、
血管が急激に開き、心臓が耐えられません」
ゆっくりと話し始める。
「まずは白粥を少しずつ腹に入れ、内側から熱を戻し、
そのうえで、ぬるめの湯で、手足から順に……」
自然と説明に熱がはいる。
「……なるほど」
永井軍医は深く頷いた。
「急に熱を入れること、
それ自体が、危険というわけですね……」
呑み込みが早い。
さすが、山口少佐付きの軍医だけはある。
言葉の端だけで、肝心なところを掴んでくる。
「ですが……」
ふいに、声が低くなる。
「そのような知識、一体どこで?」
「……え」
長居軍医の視線が、
まっすぐ、こちらに向けられていた。
未来の知識です――
などと、言えるはずもない。
「あ、ええと……経験則、からですよ。はは……」
自分でも分かるほどに声が上ずっていた。
どう考えても怪しい。
「……そう、ですか……」
永井軍医は、
それ以上は追及してこなかった。
言いづらい事情がある――
そう、受け取ってくれたのかもしれない。
この時代、兵として集められた者の中には、
口にしがたい来歴を抱えた人間もいる。
詮索せぬのも、また情け――
そんなところだろうか。
「すまんな、小林少尉」
山口鋠少佐が、掠れた声で言った。
「私の不徳で、皆に苦労をかけた……」
「少佐、今はお休みください、
全員で帰るまでが、俺たちの行軍です」
「あの橇に、まさか、命を救われるとはな」
隣で、右脚を固定された大蔵元大尉が、
苦笑まじりに口の端を上げた。
「皮肉なものだが……少尉、感謝しているぜ」
「脚が治ったら、また、
雪中行軍の御指南をお願いしますよ」
「その時は橇の扱いから教え直してやるからな」
そんなやり取りに、部屋の空気がわずかに和らいだ。
「……小林少尉」
負傷兵を介抱していた加藤次郎見習士官が、
こちらへ歩み寄ってくると頭を下げてきた。
「ありがとうございました、私たちを救ってくださって……」
「当然のことです」
そう返してから、俺は部屋の中を見回した。
包帯を巻いた者。
顔色の悪い者。
毛布にくるまり、目を閉じている者。
そこには、まだ、
何人もの負傷兵が横たわっていた。
それでも。
誰一人として、
死の淵に沈んではいなかった。
その事実だけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……みんな、無事でよかった」
――――――――――
一階では。
井上徳蔵中尉と、
宿の舎主である長内文次郎氏が、
帳面を前に顔を突き合わせていた。
「米は、先ほど聞いたとおり六、七斗……」
井上中尉が、
帳面の上に指を置いたまま、低く言う。
「となれば、二百十名に対して、どこまで粥を延ばせるか、だ」
「はい……」
長内氏の声にも、
はっきりとした硬さが混じっていた。
「水を多めにすれば、見た目の量は出せますが、
それでも、二日、もつかどうか……」
六、七斗……約百キロ。
その量だけ見れば決して少なくはない。
だが、二百を超える人間が口にするとなれば、
たちまち心許ない数字となる。
「塩菜や、干し肉も、
総動員するしかないですな……」
井上中尉は帳面を睨み、
指先で、何度も数字を弾いていた。
結局、人を生かすのは「火」と「水」と「食い物」だ。
暖かい部屋に入ったからといって、
兵站は眠ってはくれない。
「あ……ひとつ、忘れていました」
階段を下りながら、俺は二人へ声をかけた。
「人数を、もう少し多めに見込んでください。
その数は二百五十です」
そんな俺の言葉に――
二人の手が、ぴたりと止まる。
「……二百五十?」
井上中尉が眉をひそめた。
「弘前歩兵第三十一連隊です」
それは、この八甲田山雪中行軍における、
我々とは別の、もうひとつの部隊。
八甲田山雪中行軍の歴史の陰に埋もれし、
もうひとつの「遭難隊」である。
「弘前……三十一連隊?」
井上中尉の顔に、訝しさが浮かぶ。
無理もない。
上役の神成大尉ですら、
その動きを知らされてない可能性が高い。
逆に、弘前側も、
我が青森隊の動向を知らないだろう。
天による偶然の悪戯か、
軍部による意図かは、わからないが――
「明日、もうひとつの雪中行軍部隊が、
この田代新湯へ辿り着く、可能性があります」
その場が、しんと静まり返った。
「いや、そんな話は……」
井上中尉が言いかけたところで――
「あ……ああっ、そうだ、弘前隊っ!」
長内氏が、はっと顔を上げた。
「本来なら、今日あたりに着く予定だったんです。
ですが、この雪で……」
そこまで言うと、長内氏は、
目を大きくして俺たちの姿を見る。
「あなた方とは……別の隊、なのですか……」
「ええ、我々は青森方面からの歩兵第五連隊です。
弘前歩兵第三十一連隊とは別働になります」
「私は、てっきり……皆さんが、その隊なのだと……」
青森隊と、弘前隊が別であることに、
ようやく気づいたらしい。
長内氏の混乱は、もっともだった。
この暴風雪。
当初の予定など、
とうの昔に吹き飛んでいる。
軍属でない者に、この山中で、
細やかな区別を即座に見分けろという方が無理だろう。
「明日には、我々二百十名に加えて、
弘前隊三十八名……いや、四十五名が、合流する見込みです」
「よ、四十五……っ」
長内氏の顔色が、目に見えて変わった。
今でさえ、田代新湯は
青森隊だけで収容の限界を超えている。
そこへ、さらに四十五名。
平然としていられる数字ではない。
「ですので、米は二百五十名を見込んでください」
「足りない分は、漬物や、干し肉などの、
保存食で繋ぐしかあるまい」
井上中尉は、すぐに計算を組み直していく。
「な、なんとか……誤魔化すほか、あるまいか……」
長内氏は、今にも泡を吹きそうな顔で、
必死にそろばんを弾き始めた。
* * *
雪中行軍に先立ち、
少なくとも長内氏の頭には、
弘前隊の到着予定があったのだろう。
そして、我ら青森隊は、
いわば招かざる客、そのものである。
長内氏は、
最初に「予定より人数が多い――」と言った。
おそらく、俺たちを、
事前に連絡を受けてた弘前隊だと思ったのだ。
そこは、非常に申し訳ない。
* * *
「我々もそうですが、
弘前隊もまた、決死の行軍を経ています」
俺は少し声を和らげた。
「粥でも、十分にありがたい……
むしろ、その方が、身体には優しいくらいですよ」
「……そ、そうですか……」
飢えと寒さに晒された身体へ、
いきなり重い食を入れるのはよくない。
その意味では、粥は最善に近い。
もっとも――
腹を空かせた兵たちが、
感情的に満足するかは、また別の話だが……。
「おおむね、話は分かりましたが――」
物資の計画表を新たに書き直しながら、
井上中尉が静かに口を開く。
「小林少尉は、その弘前隊の情報を、
どこで知ったのです」
「えっ……と……」
喉が詰まる。
当然だ。
井上中尉も知らず、
神成大尉にも伝わっていない弘前隊の情報。
なぜ、
一介の少尉でしかない、
小林守が、知っているのか――
不自然にもほどがある。
下手をすれば、軍規どころの話では済まない。
「……二階で療養中の、山口少佐からの言伝です……」
そういうことに、しておこう――
あとで少佐には、それとなく、
話を振っておかなければならないかもしれない。
「……なるほど」
井上中尉はそう言った。
だが、その目は、
いまだに俺に疑いをむけていた。
頭の切れる人の相手は、本当に骨が折れる。
――――――――――
パチッと――
そんな囲炉裏の火は、
一階でも、変わらず爆ぜていた。
今夜を越えれば、
この宿には、
さらに多くの命が辿り着く――
湯も、米も、
寝場所も、人でも、
ひとつとして余裕はない。
あらゆる物が足りてない。
こうして、
生き延びた先でも、
まだ戦いは終わってない。
予断を許さない。
だが、それでも、俺たちは。
今、生きていた――




