第四十話 念願の田代新湯
重い扉が閉まった瞬間――
世界から、音が消えた。
つい先ほどまで、
鼓膜を打ち続けていた暴風雪の咆哮が。
厚い木壁の向こうへ遠ざかり、
まるで、悪い夢の残響のように小さくなっていく。
「……助かった……」
誰かが、掠れた声で呟く。
それは軍規も階級もない、
ただの、ひとりの人間としての安堵の声だった。
――――――――――
ここは「田代新湯」の母屋。
駒込川の谷底に潜む、温泉宿だ。
吹雪に半ば埋もれながらも、
この建物だけが、確かに文明の体温を残していた。
土間には踏み固められた雪が薄く残り、
板間の奥からは、
薪の匂いと湯気の湿り気が流れてくる。
囲炉裏の火だ。
人の住まう匂いだ。
その事実だけで、張り詰めていた胸の内が、
かすかにほどけていくのがわかる。
「……な、何事だ。この夜更けに!」
奥の板間から、男が現れた。
手にした提灯の灯が、
驚きに合わせて激しく揺れる。
幽霊でも見るかのように目を見開いた、その男――
この宿の舎主、長内文次郎であった。
「青森歩兵第五連隊、雪中行軍隊である」
神成大尉が軍帽を取り、名乗った。
その声は疲れていた。
だが、崩れてはいない。
「遭難し、ようやく辿り着いた……」
そして、静かに頭を下げる。
「厚かましい願いだが、
二百十名の将兵を、屋根の下へ入れてはもらえまいか」
「……五連隊!? に、二百っ!?」
長内氏は提灯を持つ手を震わせ、
戸口の向こうにひしめく兵たちの影を、言葉もなく見渡した。
「予定日を過ぎて、この嵐だ。
てっきり、山を無事に降りられたか、あるいは……」
そこで、言葉を飲み込む。
無理もない。
この未曾有の猛吹雪の中。
第五連隊がまだ山中にいるなど、
常識の範囲では、考えられないことだ。
まして――
二百十名が、誰一人欠けることなく、
この地獄を踏み越えてきたなど。
その事実そのものが、
長内氏の常識を、静かに打ち砕いていた。
「百六十名までなら、
板間と個室を詰めて、どうにか収容できますが……」
長内氏は我に返ると、
すぐに宿の内を見回しながら算段を始めた。
「お伺いしていた人数より、あまりに多い。
二百を超えるとなると……」
「ふむ……」
神成大尉が腕を組む。
助かった――
そう思った直後に、別の壁が立ちはだかる。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
俺は、一歩前に出た。
「宿に入りきらぬ分は、外の雪濠で夜を越しましょう」
長内氏が怪訝そうに眉をひそめた。
「外? この吹雪の中でですぞ?」
「ただの雪穴ではありません」
俺は言った。
「天井を塞ぎ、冷気溜まりを作った、
かまくら型の雪濠です」
「この母屋の厚い木壁が、
また、巨大な風除けにもなるでしょう」
「かまくら……」
長内氏は、興味深げに目を細めた。
「宿と雪濠で、交互に暖を取るよう組めば、
十分に凌げます」
「入れ替えの差配は、私が受け持ちましょう」
俺の言葉に、
井上徳蔵中尉がすぐさま頷いた。
その声音には、もう迷いがない。
平沢の炭小屋で得た手応えが、
この場でも生きると信じているのだろう。
「……まあ、それなら」
長内氏は一瞬だけ目を伏せ、
それから、きっぱりと頷いた。
「分かりました。どうぞ、中へ」
その一言で、
兵たちの間に、静かで深い安堵が広がった。
誰も大声は上げない。
もう、そんな力は残っていない。
だが、肩の力が抜ける気配だけは、
確かにその場を満たしていた。
――――――――――
「二階だ! 負傷者と、冷えの強い者を優先しろ!」
号令とともに、
二百を超える兵が田代新湯の内を動き始めた。
板間を踏む軍靴の音。
濡れた外套の匂い。
凍りついた装具が触れ合う、乾いた音。
そのどれもが、
今、この場所に命が雪崩れ込んできた証であった。
山口少佐も、大蔵大尉も、
処置が早かったおかげで、今のところ命に別状はない。
その事実も、この夜の重みをやわらげた。
「舎主殿、物資のほどを」
井上中尉は、もう手帳を開いている。
疲労も寒気も、
この男の務めを鈍らせはしないらしい。
「貯えておられる米は?」
問われた長内氏は、指を折るようにして考えた。
「米が六、七斗ほど……。
粥にすれば、数日は持ちます」
「それで十分です」
神成大尉が深く頭を下げた。
「感謝する」
「兵隊さん、頭を上げてください。
それより、まずは温泉だ」
長内氏は慌てて手を振り、
川沿いの湯小屋がある方角を指した。
「湯に入れば、凍えた指先も、すぐに戻る」
その瞬間――
俺の背に、
冷たいものが走った。
「神成大尉、進言があります」
「何だ」
「兵たちに、いきなり、
熱い湯へ入ることは禁じてください」
神成大尉が眉を動かす。
「……どういうことだ」
「急激な加温は、心臓に致命的な負担をかけます。
凍傷を悪化させる恐れも、あります」
俺は背後の永井軍医へ視線を送った。
「……ですよね?」
「確かに、その通りです。
まずは内から少しずつ熱を戻し、
ぬるめの湯で段々に温めるのが最も安全だ」
この時代にはまだ、
急な復温の危うさは広く知られていない。
冷えた者は、すぐ熱い湯へ――
それが、むしろ自然な考えだった。
だが、俺たちは違う。
ここまでの行軍で、
急ぎすぎる温め方の危うさを、
身をもって知り始めていた。
「まずは白粥か、温かい汁を、少しずつ腹へ入れる」
「それから濡れた衣服を脱がし、
ぬるい湯で、手足から順に戻していくべきです」
永井軍医は、すぐさま、
周囲の兵へ指示を飛ばし始めた。
「ほう……なるほど」
長年、山と共に生きてきた長内氏も、
感心したように息を漏らした。
その目には、驚きだけではない。
命を繋ぐ工夫に対する、素直な敬意が宿っていた。
――――――――――
明治三十五年(1902年) 一月二十六日、夜。
史実の青森歩兵第五連隊は、
この頃には、
すでに、部隊としての形を失っていた。
将は倒れ、
兵は散り散りとなり、
冷たい闇の中で、
一人、また一人と、その命の火を、
消していったはずの刻。
だが、今は違う。
俺たちは、念願の田代新湯へ辿り着いた。
長内文次郎の協力を得て、
厚い木壁の内側で、たしかな明日を見据えている。
脱落者、依然としてゼロ。
囲炉裏の火が、ぱちり、と爆ぜた。
その音は俺たちにとって、
何よりも力強い、
完全勝利の鼓動のように聞こえた。




