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八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第一章 出発準備

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第四話 撤退という選択肢

 準備を進めるほど、

 俺の中で一つの考えがはっきりしていった。



 撤退基準が、存在しない。


 進む。

 耐える。

 やり切る。


 それが、この演習における前提だった。



――――――――――


 地図を前に、俺は一人で考え込んでいた。


 八甲田山。


 地形は複雑で、視界は天候に左右される。

 吹雪になれば、方角すら信用できない。


 それでも、進軍計画には「引き返す」という項目がない。


 史実でも、そうだったはず。


 誰も「戻る判断」をしなかった。


 いや、正確には――


 「戻る」という選択肢そのものが、存在しなかった。


 * * *

 遭難記録の中で、

 撤退は「失敗」として扱われていた。


 目的地に辿り着けなかったこと。

 演習を完遂できなかったこと。


 だが、生きて帰れなかったことについては、

 なぜか、誰も深く問われなかった。


 * * *



「……おかしいだろ」


 思わず、声が漏れる。


 演習は戦争じゃない。

 経験を生きて持ち帰ってこそだろう。


 だが、この雪山では、

 戦争より簡単に人が命をおとす。



――――――――――


 その日の午後、俺は上官を訪れた。


 井上徳蔵イノウエ トクゾウ中尉である。


 詰所の一角。

 机に広げた書類に目を通していた井上は、

 俺の足音に気づき、顔を上げた。


 軍服の袖口には、

 使い込まれた癖が残っている。

 几帳面だが、過剰ではない。


 穏やかでありながら、その引き締まった視線は、

 一分の好きも逃さないという気迫を感じる。


「少尉。どうした?」


「相談があります」


 短く、そう告げた。


 井上は、すぐに続きを促さなかった。

 ただ、椅子に深く腰を下ろし、話を聞く体勢になる。


 ――この人は、聞く人だ。


「撤退基準を、決めるべきだと思います」


 一瞬。

 空気が止まった。


 井上は、すぐには否定しなかった。

 だが、肯定もしない。


「……理由は?」


「天候。視界。行軍速度。


 凍傷者の発生数。

 いずれかが一定ラインを超えたら、引き返す」


 淡々と、条件を並べる。


 戦術ではない。

 判断基準の話だ。


 井上は、腕を組む。


「少尉」


 低い声。


「それを明文化すれば、

 “途中でやめる前提”になる」


 分かっている。

 それが、この時代の感覚だろう。


「……はい」


 それでも、引くわけにはいかない。


「ですが、やめる基準がないまま進む方が、

 よほど危険です」


 井上は、しばらく黙っていた。


 視線は、地図に落ちている。

 八甲田山の等高線を、なぞるように。


「少尉」


 やがて、口を開く。


「それは、大尉殿の考えとは、相容れない」


 予想通りだった。


 * * *

 神成文吉カンナリ ブンキチ大尉。


 部隊の指揮官。

 生真面目で、規律を重んじる軍人。


 俺の記憶の中では、

 この人は、間違っていなかった。


 命令を守り、

 演習を完遂しようとした。


 それ自体は、責められることじゃない。


 だが――


 雪山は、規律に従わない。


 * * *



「撤退基準、か」


 井上は、ため息をついた。


「少尉の言っていることは、理解できる。

 だが、それを通すには……」


「分かっています」


 俺は、はっきりと答えた。


「全体で通らなくてもいい。

 分隊単位で、判断基準を共有したいだけです」


 井上の視線が、俺に戻る。


「……それは」


 命令違反ではない。

 だが、命令にも書かれていない。


 その“隙間”を、俺は突く。


「責任は、俺が取ります」


 少尉の身で言う言葉じゃない。

 自分でも、そう思う。


 だが、言わなければならなかった。


 井上は、ゆっくりと息を吐いた。


「……少尉」


 その声は、少しだけ柔らかくなっていた。


「君は、ずいぶん変わったな」


 俺は答えなかった。



――――――――――


 その夜、俺は分隊の者たちを集めた。


 酒井徳次郎サカイ トクジロウ軍曹。


 木村勇キムラ イサム上等兵。


 それ以外にも、

 顔と名前が一致する程度の人数がいる。


 全体から見れば、

 ほんの一部に過ぎない。


 だが――

 今、俺の言葉が届く者たちだ。


 全員の顔を、順に見る。


 ここ数日の準備期間で、

 俺の言葉を、試してみようとする目だった。


 最初から信頼があったわけじゃない。

 だが、無視もされていない。


 靴下の重ね方。

 装備の締め方。

 休憩の取り方。


 小さな指示を、小さな工夫として受け取り、

 黙って試してくれた。


 それだけで、十分だった。


 この分隊は、部隊の中のほんの一部に過ぎない。


 だが――

 今の俺には、

 確かに、特別だった。



「これは、正式な命令じゃない」


 最初に、そう言った。


「だが、覚えておいてほしい」


 俺は、条件を一つずつ告げる。


 視界が一定以下になったら。

 行軍速度が落ちたら。

 凍傷者が出たら。


「その時は、俺が止める」


 沈黙。


 誰も、すぐには反応しなかった。



 酒井が、ゆっくりと口を開く。


「……了解しました」


 日に焼けた顔に刻まれた皺が、

 一瞬だけ、動いた。


 短い返事。

 だが、そこに迷いはなかった。


 それで、十分だ。



 俺は知っている。


 撤退という判断が、

 この山では、命を分けることを。


 そして、その判断が、最も難しいことも。


 それでも。


 引き返す勇気だけは、

 誰かが持っていなければならない。


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