第三十九話 絶望の彼方へ
鳴沢の断崖を渡る風は、
依然として猛威を振るっていた。
だが――
絶望の淵から引き上げられた山口鋠少佐を、
橇に乗せた、その瞬間から、
第五連隊の空気は、
はっきりと変わっていた。
「……すまぬ。本当に……すまぬ……」
橇の上。
毛布に幾重にも包まれた山口少佐が、
白く、凍てついた息とともに、かすれた声を漏らす。
その瞳には、
先刻までの絶対的な諦念は、もうなかった。
ただ――
自分を運ぶ兵たちの背中を、
万感の思いを込めて見つめていた。
「少佐、今は話さないでください。冷気が肺に入ります」
俺は橇の脇に寄り添いながら、
静かに声をかける。
そして、少佐の顔をまっすぐ見た。
「……少佐、あなたは、今……私たちの希望そのものです」
山口少佐は、小さく目を閉じ、
わずかに頷いた。
――――――――――
神成文吉大尉が、雪にまみれた簡易地図を広げる。
「この先、沢筋を、
五百メートルほど下れば、
駒込川の本流に出る……間違いないな?」
「流れに出れば、あとは、川沿いに遡るだけです」
俺は即答した。
「川という明確な『地形の底』が我々の指針になります」
「よし」
神成大尉は短く頷く。
そして、猛吹雪に向かって声を張り上げる。
「全軍、前進! 目指すは田代新湯だ!」
「おおおおっ!!」
兵たちの声が、吹雪を割って轟いた。
食料は尽きかけ、身体は芯から凍え、
指先の感覚すらもはや怪しい。
それでも、彼らの足取りには、
絶望を押し返すだけの確かな力が戻っていた。
――――――――――
駒込川の谷底は、
両側を切り立った懸崖に挟まれていた。
胸まで達する新雪、相変わらずの悪路だ。
先頭の兵が雪を掻き分け、
力尽きれば交代し、また、次の兵が前へ出る。
一歩。
また一歩。
部隊は、一つの巨大な生き物のように連なり、
白い壁を食い破るように進んでいく。
もう、誰も勝手には離れない。
もう、誰も諦めてはいない。
その列は、
軍隊である以前に、
生きて帰るために結ばれた、
ひとつの意志、そのものだった。
――――――――――
行軍開始から二時間あまり。
不意に、先頭を歩いていた、
酒井徳次郎軍曹が足を止めた。
「……少尉殿」
鼻を、わずかに動かしながら、
風の先を睨む。
「この匂い……」
風に乗って届いたのは、
八甲田の、凍てつく冷気には、
およそ不釣り合いな独特の刺激臭だった。
硫黄――
そして、微かだが、人の暮らしの気配。
「……見えたぞ!」
木村勇上等兵が、張り裂けるような声で叫んだ。
「湯気だ!
本当に……湯気が上がっている!」
吹雪の白い幕が、
一瞬だけ、風に裂けた。
その向こう。
駒込川の川岸に――
雪に埋もれながらも、
確かに建つ木造の影があった。
平沢の炭小屋など、比べものにならない。
複数の棟が連なっている。
そして、その隙間から、
もうもうと立ち上る白い地熱の蒸気。
「……田代新湯……」
誰かが、
祈るように呟いた。
「温泉宿だ……!!」
吹雪の切れ間の向こうに見えた建物群は、
ひとまとまりの湯治場のようだった。
「……間に合いましたな」
井上徳蔵中尉が、
静かに、だが確かな声で言った。
――――――――――
明治三十五年(一九〇二年)一月二十六日。
八甲田雪中行軍、四日目。
史実では、もはや、
軍隊としての形を保つことすらできず。
大半の兵が、
雪に、呑まれていたはずの絶望の刻。
青森歩兵第五連隊、二百十名。
俺の現代知識。
神成大尉の指揮。
そして――
兵たちの、
決して折れない絆によって。
脱落者、
依然としてゼロ――
俺たちは、ついに、
田代の湯煙へと辿り着いた。
――――――――――
建物は一つではなかった。
雪原に呑まれかけた小さな棟が、
湯気の向こうに、いくつも寄り添うように並び、
その中心に、
ひときわ大きな母屋があった。
「……あの建物ですね」
屋根の一角だけ雪が緩み、軒下には、
屋内からの熱に溶かされたらしい筋が走っている。
脇の煙出しからは、湯煙とは違う、
薪の匂いを含んだ煙が細く上がっていた。
生きている家だ。
人がいる。
神成大尉は、母屋の扉へ、
よろめくように歩み寄った。
凍え切った手で戸を叩き、声を張る。
「……青森歩兵第五連隊だ。
遭難者二百十名、救助を乞う!」
だが、吹雪の唸りに声は吞まれ、
すぐに返事はない。
神成大尉は躊躇わなかった。
凍りついた引き戸へ手をかけ、
力を込めて、横へ引く。
重い扉が、軋みながら開いた。
その奥には、数日ぶりの、
「文明の内側」にある暖かな闇があった。
土間の向こうから、薪の匂いと、
湯の熱気が流れ出す。
そのぬくもりが、
二百十名の命を、
静かに、確かに迎え入れた。




