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八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第五章 1902年1月26日(四日目)

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第三十八話 命令違反


「山口少佐ぁぁーーッ!!」


 何度目かの加藤次郎カトウ ジロウ見習士官の悲鳴が、

 吹雪を切り裂いた。


 その声だけで、周囲の空気が凍りついた。


 少佐の姿が消えた彼方へ、

 俺は、ほとんど反射で駆け出していた。



――――――――――


 崖だった――


 白に塗り潰された世界の中で、

 そこだけが、異様な陰影を帯びている。


 縁には、乱れた足跡。

 削れた雪。

 崩れ落ちた跡。


 そして、その下――


 数メートル先の岩棚に、人影があった。


 雪に半ば埋もれながらも、

 どうにか滑落を免れ、


 そこで、かろうじて止まっていた。



「山口少佐……!」


 神成大尉の声が、

 押し殺したように震えた。


 だが、酒井徳次郎サカイ トクジロウ軍曹は、

 すでに状況を呑み込んでいた。


「少尉殿!」


「ああ、ロープだ!

 木村、そりを固定しろ!」


 命令と同時に兵たちが散開する。

 猛吹雪の中だというのに、その動きに迷いはない。


 だが――。



「……来るな」


 崖下から、

 かすれた声が届いた。



「……もう、よい……」


 岩棚の上で、

 山口少佐は、力なく首を振っていた。


 その目に宿るものは、

 寒さではない。


 疲労。


 自責。


 そして――


 己の結末を悟った者だけが持つ、

 冷え切った「諦め」だった。



「少佐……!」


 神成大尉が身を乗り出す。

 だが。


「来るな……神成……っ!」


 裂けるような声が、

 吹雪の底から突き上がる。



「右足が……完全に、いかん……歩けん……!」


 少佐は、苦痛に顔を歪めながら、

 動かぬ右膝を押さえていた。


 滑落の際、岩肌に激しく打ちつけたのだろう。


 軍服は裂け、滲んだ血が、

 たちまち黒く凍りついている。



「それに……この岩棚の雪は脆い……。

 複数で乗れば……必ず、崩れる……っ!」


 最悪だった。


 胸まで沈む深雪の八甲田で、歩けないという事実は、

 そのまま、死を意味する。


 しかも、助けに入れば、

 今度は「救助側」まで巻き込まれる。


 死の宣告だった。



「命令だ……聞け……っ!」


 吹雪に掻き消されそうでいて――


 なお、

 はっきりと耳を打つ声。


 山口少佐は、自分という足手まといを切り捨てることで、

 部隊を生かそうとしていた。



「ここで、編成外である……私の部隊を、解散する……」



 その場の空気が、

 完全に、凍りついた――



「……以降は、各々……自力で帰路を目指せ……」


 短い沈黙。


 だが、その沈黙の重さは、

 吹雪よりも深く、


 兵たちの胸へと、のしかかる。



 * * *


 史実では――


 この八甲田で、

 山口少佐の口から発せられたとされる、


 「部隊解散」の命令。


 それを境に、第五連隊の精神の柱は砕けた。


 統率は失われ、

 兵たちは散り散りとなり――


 静かに、全滅したのだ。


 * * *



「……私を、置いていけ」


 誰も、声を発せなかった。



 置いていけと命じられたならば、

 従うしかない。


 それが「命令」だ――



 見殺しにしろと命じられたならば、

 背くことは、許されない。


 それが「規律」だ――



 軍隊において、上官の言葉は「絶対」である。



――――――――――


「失礼します、少佐」


 俺は、一歩、前へ出る。

 ロープを掴み崖縁へ身を乗り出した。


「少尉、何を……っ」


 神成大尉の驚愕を背に受けながら、

 俺は、腹の底から叫んだ。



「強風のため、山口少佐のお言葉――

 うまく聞き取れません!」


 吹雪へ向かって、さらに大きく声を張り上げた。


「具体的な御指示は――

 少佐が、崖上へ戻られてから直に伺います!」



「私は……貴公らに、生きろと……言っているのだ……っ!

 足場が崩れるぞ!」


 崖下から、山口少佐が、

 叫び返してくる。



「ええ、生きますとも……」


 俺は、小さく頷く。


 ロープを腰へまわし、

 きつく締める。


「ですが、それは、全員でです」


 深く、

 たった一度だけ息を吸う。


 そして、

 一気に崖を駆け下りた。



 一足、二足。

 巻き上がる雪煙。


 足元で砕ける雪の感触。

 頬を切る風。


 疾く。


 岩棚の脆い雪へ体重を預けぬよう、


 ロープの張りで身体を支えながら、

 駆け抜けて――



 俺は、

 少佐の目前へ降り立った。



「……少尉、命令違反だぞ」



「強風のため、聞こえません」


 さらに一歩、距離を詰める。


「馬鹿者が……っ」


 少佐は、

 堪えきれぬように顔を伏せた。



「ええ、たしかに、

 私は馬鹿者かもしれません」


 俺は言った。


「ですが――

 馬鹿者は、私一人では、ないようです」


 親指で、

 崖の上を示す。


 そこには――



「ロープだ! 下へ降ろせ――!」


 部下たちへ救助を命じる、

 神成大尉の姿。



「少佐の命令が確認できぬ以上、

 現場判断で対処せよ」


 軍規の隙を突き、

 平然と指揮を執る井上中尉の声。



そりを使って荷重を散らせ!

 一点に重みをかけるな!」


 酒井軍曹は、

 もっとも現実的な行動を、

 すでに、兵たちへ行き渡らせていた。



「……馬鹿、どもが……」


 山口少佐の呟きは、

 かすかに、震えていた。


「指揮官を失った部隊は、

 それは、もはや部隊とは呼べません」


「……」


「それは、ただの遭難者の群れです」


 吹雪が吠える。


 沢底の冷気が、

 骨の芯まで突き刺さる。


 それでも俺は、

 少佐の目を真っ直ぐ見据えた。



「ここでの解散命令は――

 一人ずつ、死ね、と命じるのと同義です」


 風が唸る。


「我々が守るのは、規律だけではありません」


「……」


「全員で帰るという、その望みです」


 白の世界に、

 一瞬だけ静寂が落ちた。



「……だが……私は……」


 山口少佐の唇が、わずかに震える。


「少佐」


 静かに、遮る。


「あなたを置いて進む兵など、

 第五連隊には、一人もおりませんよ」


 頭上では、

 酒井軍曹たちが橇を降ろし始めていた。


 脆い足場でも、面で荷を受ければ、

 引き上げる余地はある。


「……」


「信じてください、我々を。

 そして、ご自分を……」



 長い、間。


 やがて。


 山口少佐の目から、

 一筋、熱いものが零れた。


「……すまぬ……」


 小さく。


「……私の、不徳だ……」


「いいえ」


 俺は、力強く首を振る。


「少佐の決断があったからこそ、

 我々は、ここまで繋がってこられたのです」



――――――――――


「酒井軍曹!」


「はっ!」


「降ろすぞ!」


 兵たちがロープを握る。



 そりが固定され、

 山口少佐の身体が、

 少しずつ、慎重に引き上げられていく。



 鳴沢の崖下。


 吹雪の荒れ狂う沢底で。


 静かな、

 だが、必死の救出が進んでいく。


 白に閉ざされた世界の中で。


 それでも――


 人は、まだ、繋がれる。


 そのことを、

 俺は、この絶望の、ただ中で知った。


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― 新着の感想 ―
これは独り言だが……みたいな言い訳すこ あと一連の救助劇は第六潜水艇の事例みたいに戦前の教科書に掲載されそう でもってそれを読んだ子供がかまくらを作ったりしてポジティブな八甲田山ごっこをしそう
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