第三十七話 「……少佐……?」
一月二十六日、午前七時
俺たちは、炭小屋を後にした――
小屋から立ち上っていた最後の煙が、
白く荒れ狂う風雪の中へと溶けて消えていく。
屋根のある場所で得た、
わずかな熱と安堵。
将兵たちはそれらを外套の奥へ押し込み、
再び、白の地獄へと踏み出した。
――――――――――
「一歩も、止まるな」
神成大尉の号令が飛ぶ。
目的地は『田代新湯』。
距離にして、わずか一キロ強。
だが、四日目の八甲田は、
もはや「積雪」という言葉で語れる領域ではなかった。
雪は、壁だった。
行く手を完全に遮る、白の障壁。
先頭の兵がスコップを振るう。
掘る。
掻き分ける、ではない――
掘り進むのだ。
一歩ごとに、胸元まで沈み込む新雪へ、
身体をねじ込んでいく。
まるで、抵抗の強い雪の海を無理やり泳ぐように。
「酒井軍曹、列を詰めろ! 離れるな!」
「了解!」
俺の声に、酒井徳次郎軍曹が短く応じる。
隊列の後方では、
山口鋠少佐が歩いていた。
その顔には、
隠しきれない疲労の色が濃く張り付いている。
加藤次郎見習士官に身体を支えられながら、
それでも、必死に軍靴を動かしていた。
――――――――――
行軍開始から一時間。
部隊はついに『鳴沢』の急峻な縁に到達した。
そして、俺たちは目にする。
絶望の崖を――。
視界の先。
雪と氷に覆われた、
垂直に近い断崖の絶壁。
その下。
吹雪の奥底に黒く沈む、暗く深い谷。
駒込川だ――
雪のない季節なら、急勾配ではあれど、
沢に降りるルートとして利用ができただろう。
しかし、そこに、八甲田の『雪と氷』が加わることで、
すべてが絶望的な滑り台へと染まる――。
「……これは無理だ、降りられん……」
誰かの声が、力なくこぼれ落ちた。
ひゅううぅ……と鳴る、
谷底の風の音すら、不気味に遠い。
この状況で、二百十名が崖を降りるなど――
集団自殺に等しい。
兵たちの間に、静かに、
しかし、確実に諦念が広がっていく。
神成大尉が、懐へと手を差し入れた。
取り出したのは、
一枚の紙束。
擦れ、折れ、雪で汚れた――
手書きの簡易地図。
出発前。
俺が独自に等高線を書き込み、
手渡し、部隊の上官たちに配られたものだった。
「……少尉」
神成大尉は、断崖と地図を交互に見つめる。
そして、震える指で、紙面の一点を指し示した。
「お前の地図がなければ……」
低く。
だが、確かな声。
「私は、今、ここで、膝を折っていたかもしれん」
一瞬、思わず俺は息を呑んだ。
指揮官クラスの諦めは、
時に、その瞬間に部隊を壊滅させるのだ。
「この起伏、等高線の流れによれば……」
神成大尉の視線は鋭さを取り戻していた。
「二百メートル右手に、雪が吹き溜まりやすく、
崖の勾配が緩む斜面があるはずだな……」
雪に閉ざされた世界。
もう、人の目には『地形の線』が見えない世界。
俺の描いた地図の上でのみ、
確かなルートが、その『地形の線』が姿を現していた。
「そこからなら、降りられるだろう……」
絶望に沈んでいた空気が、わずかに揺れる。
「全軍、右へ! 距離二百、緩斜面を探せ!」
神成大尉の号令が駆ける。
部隊全体に、再び生きるための意志が宿った。
だが――。
――――――――――
安堵が広がりかけた、まさにその瞬間だった。
――ガァンッ!
乾いた衝撃音。
鉄が、硬い岩を打つような異音。
「……ッ、今の音は!?」
音がした方へ、俺は反射的に振り返った。
視線の先。
隊列の最後尾。
加藤見習士官が抱きかかえていた、
その腕の中から――
山口少佐の身体が、
ふわりと浮いたように見えた。
次の瞬間。
――ザザッ……ズルリ。
雪が崩れる。
抗えない重力。
そして。
少佐の影が、
崖の下へと消えた。
「……少佐……?」
加藤見習士官の、呆然とした声。
一拍。
恐ろしいほどの静止。
「山口少佐ぁぁーーッ!!」
加藤の絶叫が、鳴沢の渓谷に響き渡った。




