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八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第五章 1902年1月26日(四日目)

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第三十六話 沢へ

 炭小屋の中に、将校たちが集っていた。


 薪の爆ぜる音と、濡れた衣服から立ちのぼる湯気が、

 狭い室内にじっとりと満ちている。



 小屋の床に広げられた、泥と、雪で汚れた地図。


 重石代わりの手袋。

 濡れた軍服。乾ききらぬ外套。


 その場の、誰の顔にも、

 隠しきれない疲労の色が濃く浮かんでいた。



 神成文吉カンナリ ブンキチ大尉。

 山口鋠ヤマグチ シン少佐。

 井上徳蔵イノウエ トクゾウ中尉。

 その他、数名の将校。


 そして、少尉である俺も、何故か並んでいた。


 場違いな感覚が拭えない。


 これまでの大隊長や、中隊長クラスが集まる、

 この種の作戦協議に呼ばれたことは一度もない。


 当然、俺以外に少尉の姿はない。

 もう一度言う。場違いだ。


 それでも、呼ばれた以上、立つしかない。


 理由は分かっていた。


 山口少佐の救助。

 かまくら型雪濠の設営。進路喪失時の的確な対策進言。


 現場からの声を伝える立場だろう。



 誇らしさよりも、

 背負わされた責任の重さが勝っていた。


 胃の奥が、じわりと軋む。


 どうやらこの身体は、

 極寒よりもこうした緊張に弱いらしい。



――――――――――


「食料は……」


 井上中尉が静かに口を開いた。

 部隊の物資管理を担う男の、重苦しい報告が始まる。


「本日を含め、余裕は、ほとんどありませんな」


 淡々とした声。

 だが、その一言が重い。


 この場の誰もが理解している。


 今朝の朝食。

 一人当たり干し肉わずか数切れ。


 ――あれが、俺たちの携行食の限界だったのだ。



「炭と水は、この小屋のおかげで確保できますが――」


 井上中尉は目録を広げる。


「肝心の『糧食』が、尽きます」


 結論だけを、再び、静かに落とした。

 空気が沈む。



 空腹――

 それが、この極寒において、どれほど致命的なことか。


 平時ならば、人は数日食べずとも生きられる。


 だが今は違う。

 ここは、氷点下二十度の八甲田山だ。


 食事による熱量を失えば、

 身体は内側から凍え、判断力は鈍る。


 行軍能力は削がれ、

 士気は崩れ、やがて精神が壊れる。


 食料の枯渇は、緩やかな『死』の確定を意味していた。



――――――――――


「平沢の位置は確定した」


 神成大尉が地図を見つめたまま言う。


「ここを基準に、おおよその地形は読める」


「はい」


 井上中尉が頷いた。


「現状は、完全な迷走ではありませんな」


 地図は正確ではない。

 俺が出発前に用意した簡略図だ。


 心許なさはあるが、贅沢を言える状況ではない。



「問題は……」


 山口少佐が低く呟く。


「ここから、どう動くかだ」


 太い指が地図をなぞる。


「田代新湯か。青森営舎か」



 田代新湯――

 距離にして約二キロ。だが位置に不確定要素がある。


 青森営舎――

 距離十八キロ。距離は絶望的だが方向は確実だ。



 どちらを選ぼうと、結局は――

 この天候と、尽きかけた兵たちの体力が許すかどうかだ。



――――――――――


「沢へ降りる」


 神成大尉の低く、力強い声が響いた。

 地図の等高線の一点を指す。


「沢筋ならば、地形の基準が取れる。方向の補正も可能だ」


 それは、極めて理に適った判断だった。


 現代登山の常識において「遭難時に沢を下るな」は鉄則だ。


 滝や断崖に行き当たり、

 進退窮まることが多いからだ。


 昨日の状況で沢に下りることは危険だった。

 だが、今は違う――



 俺たちはもう遭難者ではない。


 現在位置(平沢)を把握しており、目的地である田代新湯が、

 『駒込川の川沿い』にあることを知っている。


 目印が、すべて雪に埋もれた、この白一色の世界において、


 地形の底である『沢(川)』は、

 絶対に迷うことのない、唯一の確かな『道標』となる。


 雪原では「距離」も「方向」も「勾配」も狂う。


 だが沢は違う――

 明確な地形があり、水の流れがある。


 「下」が、はっきりと分かるのだ。



――――――――――


「沢沿いに位置を確定し――」


 神成大尉が顔を上げる。


「その上で田代を目指す」


 決断だった。


 留まれば、食料が尽きる。

 やがて動けなくなり、緩やかな死を迎える。

 引き返すには距離がありすぎる。

 進めば危険は増す。


「異論はあるか」


 短い沈黙。


「現状では最善でしょう」


 山口少佐が深く頷いた。


「補給の見込みなし、救援も期待は薄い……」


「自ら動くしかありませんな」


 井上中尉が静かに締める。


 この場の結論は、ひとつだった。



――――――――――


 明治三十五年(1902年)一月二十六日


 午前七時頃。



 炭小屋の外。


 極寒の吹雪の中、

 全部隊に向けて号令が発せられる。


「本日、沢へ向け部隊を移動させる!」


 吐く息は白く、雪風に声は削られ、


 それでも――

 神成大尉のその声に迷いはなかった。


 極限の中の理性。


 今日、田代新湯に辿り着けねば、俺たちに明日はない。



 俺は無意識に拳を握る。


 動き出す。


 再び、白の悪魔が支配する死地の中へ。



 だが、昨日までとは明確に違う。

 現在位置を知り、地形を読み、明確なゴールを見据えた行軍。


 これは撤退ではない。


 無謀な特攻でもない。


 ――生きるための、前進だ。


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― 新着の感想 ―
無事たどり着けたら温泉の謳い文句に武運長久あたりが加わりそう もしかしたら地元の人が何かに驚いたウサギが逃げて来た方を見るとやつれた軍隊の行軍が……ということになったりして あと地元民にとっては冬の…
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