第三十五話 束の間の光
「ん……ここは……」
目を開けると、天井が近い。
白く、滑らかに丸みを帯びている。
「雪濠、か……」
かまくら状に整えられた、簡易の野営壕。
第二野営地で築いたものと似た構造で、
壁も厚く、冷たい風の通り道も完全に潰してある。
八甲田の猛吹雪に耐え抜いた、立派な出来だ――
――――――――――
明治三十五年(1902年)一月二十六日。
八甲田山雪中行軍。
四日目の朝。
――――――――――
「はぁ……」
吐く息が、白く揺れた。
雪濠の入り口から、外へ身を乗り出すと、
思ったよりも世界は明るかった。
今日も降雪は続いている――
だが、昨日までの、
肉体ごと押し潰してくるような暴風雪ではない。
「お目覚めですか、小林少尉」
雪濠から這い出た俺に、
酒井徳次郎軍曹が声をかけてきた。
「連日の野営ではありますが、
……かまくら型の雪濠は別物ですな」
誇張ではない――
風を避けるだけではない、寒さと戦うための構造。
吹きさらしの雪の上に横たわるだけの「壕」とは、
翌朝の体力の温存度が、まったく違ってくる。
小さな知識の積み重ねが、
生死の境目を静かに動かしていた。
「ああ、そうだな……」
俺は空を見上げていた。
風は依然として強い。
気温も氷点下十数度と、
厳しい冷え込みが続いている。
体感は、昨日と、ほとんど変わらない。
その時、分厚い灰色の雲の切れ間から、
一瞬だけ、眩い光が差し込んだ。
「お、おい……!」
「太陽だ……!」
「久しぶりに見た……!」
兵たちから、抑えきれない声が上がる。
ざわめきが広がる。
ほんの一瞬。
灰色の空の向こうに、
淡い陽光が覗いた、だけだ……。
だが、その光が、純白の雪原を黄金色に照らし出した瞬間、
この地獄のような雪原の空気は一変した。
「まだ、いける」
「今日は……いけるかもしれんぞ!」
笑い声が弾けた。
肩を叩き合う音が響いた。
数日ぶりに明るく人間らしい気配を感じた。
それは、紛れもない『希望』だった。
だが、数秒後、
再び太陽は分厚い雲に飲み込まれる。
雲間の空は閉じられ、
また、しんしんと容赦のない雪が降り始める。
降雪は、昨日よりは幾分穏やかだ。
それでもなお、
一般的には『大雪』と呼ばれる範疇である。
今日も、
雪は積もるのだろう、確実に……。
昨日までに積み重なった、
分厚い雪の上に、また、さらに……。
そして、地面も、空気も。
すべてが、刻一刻と冷え切っていく。
――――――――――
周囲では、
すでに朝の準備が始まっていた。
飯盒の中で、雪が溶けている。
白い塊が沈み、
透明な水へと変わっていく。
「水ができたぞ」
「次、雪を足してくれ」
兵たちは交代で火を見張り、
溶けた水を別の水筒へ移していく。
ただ『雪を溶かす』――
たったそれだけの作業。
だが、この極寒の地ではそれが命綱だった。
喉が渇いたからといって、
雪を、そのまま口に含んではいけない。
雪を体温で溶かそうとすれば、
内臓から急激に熱を奪われ、あっという間に低体温症に陥る。
だからこそ、貴重な燃料を使ってでも、
「火で溶かした白湯」を飲むことが、
雪山での絶対の生存条件なのだ。
蒸気が立ち上る。
わずかな湯気。
兵たちは自然と火の周りに集まり、
手を伸ばし、顔を寄せ、その熱を分け合う。
一人は、カチカチに凍った最後の携帯食をかじり。
一人は、わずかな干し飯を湯に溶かし、静かにすする。
誰も言葉にしない。
だが、誰もが理解していた。
食料が、まもなく完全に尽きることを。
兵たちは、最後の一滴まで胃に流し込むように、
白湯をやけに丁寧に飲み込んでいく。
――――――――――
ここが、第二の分岐点だ。
俺たちは、観測史上最悪の寒波が襲った「二十四日」を越えた。
あてもなく雪壁を掘り進んだ「二十五日」を耐えた。
そして――
正しい現在地(平沢)へと辿り着いた。
迎えた、二十六日の朝。
次に俺たちが相対する敵は『飢え』だ。
食料は、体温を生み出す熱源――
それが尽きれば、
時間の経過と共に体力の消耗は止められなくなる。
俺たちに残された猶予は少ない――
これからの判断を一つでも誤れば、すべてが終わる。
俺は、白く染まった平沢の一面を見渡した。
一向に降り止まない雪の向こうで、
八甲田の山々は、ただ静かにそこにある。
まるで、必死に足掻く俺たちを、
最後まで試すかのように――




