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八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第四章 1902年1月25日(三日目)

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第三十四話 炭小屋という砦、迫る刻限

 息は、

 吐いた端から凍り――


 鼻の奥には、

 刃のような寒気が突き刺さる――



 目を細めても意味はない。


 視界は白。


 ただひたすら、白だった。


 十歩先に何があるのか、

 その輪郭すら雪に塗り潰され、判別がつかない。


 それでも――


 俺たちの手は、止まらない。



――――――――――


 背後には、平沢の炭小屋がある。


 今、俺たちがやっているのは、その外周を掘り固め、

 風を完全に殺す雪濠を築くことだ。


「……もう一段、深くする」


 声を上げても、

 吹雪が半分以上を飲み込んでいく。


 それでも、隣で、黙々と雪を削る兵の肩が、

 小さく頷いたのが分かった。


 ザク……ザク……。


 スコップを食い込ませる鈍い音だけが、

 この、白の地獄に、かろうじて「人の気配」を刻んでいた。


 皮膚が痛い。


 指先の感覚が遠い。


 だが、それは想定の範囲だ。

 凍傷は、痛みが消えてから本番になる。


 痛いうちは、まだ戦える。



(……もう少しだ)


 風が、音を立てて部隊の側面から殴りつけてくる。

 思わず頭を下げ、腕で顔を庇う。


 一瞬の空白の後、

 また、雪を掘る音が戻った。


 兵たちは誰も逃げない。

 誰も、音を立てて倒れない。


 ここには、あの炭小屋がある。


 交代すれば、あの暖かい中へ戻れる。


 ただそれだけで、


 この男たちの足は、

 まだ、地面を踏みしめていた。



――――――――――


「交代だ。次の組、出ろ」


 酒井軍曹の声が、吹雪を割って響いた。


 雪濠の外縁を固め終えた俺たちは、

 スコップを次の兵に渡し、炭小屋の入口へと身を滑り込ませた。


 重い扉が閉まった瞬間、

 あの暴風雪の轟音が、嘘のように遠くなる。


 代わりに鼻先が、

 薪の燃える匂いと、湿った衣服の熱気が包まれた。



――――――――――


 小屋の中では、

 暖炉の熱が安定し始めていた。


 室内には、柔らかな暖気が満ちている。

 天井が熱を逃がさない、壁が風を完全に遮っていた。


 ただの野外の焚火では決して得られない、

 『屋内』という名の絶対防壁。



 外の作業で、青白く凍てついていた兵たちの顔色が、


 熱を浴びることで、

 ゆっくりと人間の色へ戻っていく。


「あぁ……助かる……」


「本当に……生き返る気分だ……」


 入れ替わり立ち代わり、

 今日、何度も、聞いた呟きだった。


 大げさな歓声ではない。

 だけど、自然と、誰もが口にする。


 深く、静かな、生の実感だった。



――――――――――


 俺は入口の隙間から、外の様子を見る。


 白。


 ただひたすら、白。


 降りしきる雪が視界を削り、

 距離感すら狂わせる、雪の世界――。



 だが、昨日までとは違う。


 この『平沢の炭小屋』という確かな人工物。

 この位置は――


 地図の上で確認できる。


 俺が演習前に独自に用意した、あの不完全な等高線地図。

 正確無比とは言えない。


 だが、目印にはなる。


 現在地の『目処』が立つ。


 その事実は、暖を取れることと同じくらい、

 何より大きな前進だった。



 * * *


 史実の八甲田山雪中行軍において、

 最大の破綻を招いた要因。



 自分たちが、

 今、どこにいるのか。


 どこへ向かって歩いているのか。


 それすら、完全に失われたこと。



 現在地が分からないという恐怖は、

 容易く、人間の精神を崩壊させていく。


 疑心暗鬼は、部隊を死の彷徨へと引きずり込む。


 そんな「最悪」が――


 この時点で完全に回避されたことになる。


 * * *



 背後から足音が聞こえる――


 神成文吉カンナリ ブンキチ大尉が、

 外の巡回を終えて、小屋へ入ってきたのだ。


 軍帽に雪を載せたまま、

 静かに暖炉の火を見つめる。


 その横顔には、隠しきれない深い疲労の影があった。

 だが、その目はまだ死んでいない。


 折れてはいない。


「首尾はどうだ」


「位置は、おおよそ把握できました」


 俺の言葉に、神成大尉は目を閉じ、

 小さく、深く頷いた。


「……そうか」


 短い返答。


 だがその声には、

 言葉では語られない重みがあった。


 ひとりで背負い続けてきた指揮官の緊張が、

 針の糸が緩むように、わずかに、ほどけていく。



――――――――――


 井上徳蔵イノウエ トクゾウ中尉が、

 帳面を手に静かに歩み寄ってきた。


「神成大尉殿、報告がございます」


 穏やかな声。だが、その表情は強張っていた。


「なんだ」


「……食料であります」



 一瞬の沈黙。



 ぱちっ――と、

 暖炉の火だけが音を立てた。


「各員の携行食、および予備の備蓄分を合算しても――」


 井上中尉は、

 静かに、だが冷酷な事実を告げる。


「今夜を越えるのが、限界かと存じます」



 誰も、動かなかった。


 暖かいはずの小屋の中で、

 別種の冷気が俺たちの背筋を撫でる。



 誰も声を上げない。

 だが、その場にいる将校の誰もが理解していた。


 本来、この演習は『一泊二日』の計画だったのだ。


 それが、すでに三日目。


 極寒の雪を掘り進むという、

 異常なカロリー消費を伴う想定外の強行軍。


 底をつくのは、必然だった。



 そして、雪山において「食料の枯渇」は、

 単なる空腹を意味しない。


 人間の体が、

 熱を生み出すための「燃料」が尽きるということ。


 それはすなわち、

 緩やかな、凍死へのカウントダウンの始まりだ。



「……そうか」


 神成大尉の声だけが、炭小屋に静かに落ちた。



 動揺はない――


 すでに頭の中で何度も計算し、

 予測していたのだろう。



 食料問題――


 この部隊の命運を左右する、

 避けられぬ現実。



 ぱちっ――


 暖炉の火が弾けた。


 赤い光が、ゆらりと室内を揺らす。


 壁に伸びた影は、

 まるで生き物のようにたわみ。


 将校たちの沈痛な表情は、

 ゆらめく光の明暗に、静かに揺らぎ続けていた。



 俺たちに残された時間は、


 もう、わずか――


 皆様、いつもお読みくださり、ありがとうございます!

今回をもちまして、第四章「1902年1月25日(三日目)」が完結となります。


主人公・小林をはじめ、山口少佐、神成大尉……。

それぞれの重圧に押しつぶされそうになりながらも互いに支え合い、行軍する。

そんな「人間たちの物語」が皆様の元に届けば、これ以上の喜びはありません。


【 次回より、第五章が開幕 】

食糧が底付き、死へのカウントダウンの中、第五連隊の目指す場所は『田代新湯』。


極限環境下の雪中行軍は、まだまだ続きます。

そこで、この物語を面白いと思ってくださった方、彼らを応援してくださる方――


下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に塗り替えて、

よろしければ、第五連隊の二百十名に「勲章」を授与してあげてください!


それでは次の章で、また、お会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
>俺は入口の隙間から、外の様子を見る。 思えばもしも煙突が無かったとしても戦前の建築だし隙間とか多いだろうから一酸化炭素中毒にはなりにくいのかも 食料は……罠でも仕掛けたらウサギでもかからないかな…
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