第三十三話 炭のぬくもり
平沢の炭小屋。
八甲田の猛吹雪に削られながら、
それでも、確かに、そこに存在していた。
木造の建造物。
人の手で作られた、避難所。
史実では、部隊が崩壊したあとに数人の隊員が、
あてもなく彷徨った果てに、偶然辿り着いたとされる小屋。
そこに、今、俺たち第五連隊は、
部隊としての形を保ったまま、立っている。
――――――――――
扉が、軋む。
ギィ……
白の世界から、一歩。
小屋のなかに踏み込んだ瞬間――
風が、消えた。
数秒前まで、鼓膜を破らんばかりに、
吹き荒れていた「冷」の暴力が、
嘘のように途切れた。
その、劇的な変化に、兵たちの顔が変わる。
「……風がない……」
「……寒さが……世界が、違う……」
誰も声を張り上げない。
ただ、理解が広がっていく。
ここは外ではない、山ではない……屋内だ。
ただ、それだけで――
凍え切った精神に、微かな光が灯った。
――――――――――
小屋の内部は暗かった。
だが、それは恐怖の闇ではなかった。
静かな闇。
文明に守られた空間の暗さだった。
吹き込んだ雪を払いながら、
俺たちは、慎重に小屋の中へ進む。
板張りの床。
煤けた梁。
そして、小屋の奥に据えられた、黒く重厚な存在。
「暖炉だ……」
誰かが呟いた。
石と、鉄で組まれた炉。
ただの焚火とは違う。
熱を閉じ込め、空間を温めるための装置。
――――――――――
すぐに、俺たちは暖炉に火を灯した。
ぱちぱちと、小さく火が燃え始める。
赤い光。揺れる熱。
その前に座り込んだ兵の一人が、
火に手を伸ばし――
「あ、あぁ……」
小さく息を漏らした。
指先だった。
凍りついていた指先の感覚が、
ゆっくり、戻り始めているのだ。
「待て」
思わず、俺の声が出た。
何人かの兵が一斉に顔を上げる。
「火に、直接当たりすぎるな」
自分でも驚くほど大きな声で、まくしたてるように告げる。
「急に温めると凍傷が悪化する、最悪の場合、命に関わるぞ」
「悪化……?」
暖炉に手をかざしていた兵が、怪訝な顔をする。
「凍傷だ」
「冷え切った手足を、一気に熱で戻そうとすると、
凍った組織が耐えきれずに、それで破壊されるんだ……」
うまい説明ができない――
永井三等軍医なら、きちんと医学的に紐解いて、
うまい説明ができるのかもしれないが、
俺には、医学用語も、
それらの理屈も足りていなかった。
だが――
「あ、ああ……なるほど……」
それは、感覚で伝わった。
「指先だけじゃない。
身体の芯から、ゆっくり温めるんだ」
「炉には近づきすぎずに離れて座るんだ、
空間の熱で、じっくりと体温を戻していく感じに……」
そして、小屋に、沈黙が訪れる――
矢継ぎ早に言葉を続けてしまったことに、
若干の後悔を覚える。
だが、急がなければいけなかった。手遅れになる前に。
「了解です」
最初に従ったのは、やはり酒井軍曹だった。
「おい、詰めすぎるな、距離を取れ」
低く、よく通る声で指示が飛んだ。
そんな酒井軍曹の鶴の一声によって、
兵たちが、じわりと配置を変えていった。
暖炉を囲む輪が、安全な距離まで広がった。
* * *
火の熱は、強すぎてもいけない。
俺たちが奪われ続けていたのは、
表面の温度ではない。
深部体温、血液と内臓の温度だ……。
ここに熱が戻らなければ、本当の意味で人は助からない。
深部体温が下がれば、人間は、急速に「壊れ」ていく。
震えが止まり、
思考が鈍り、判断が遅れ――
そして――
感情が壊れる。
感情が壊れたあとは、
恐怖が薄れ、危機感が消え、動けなくなる。
「もういいか……」
そのまま、雪の中で眠りについてしまう――
低体温症。
それは単なる体の「寒さ」ではない。
人間の「精神」を侵す病魔だ。
* * *
暖炉の熱が、
ゆっくりと空間を満たしていく。
熱が壁に留まり、天井に溜まり、
小屋の中の「環境」を塗り変えていく。
小屋のなかにいる、
皆の、寒さによる震えが弱まる。
呼吸が落ち着く。
強張っていた肩が、わずかに下がっていく。
「……あったけぇ……」
誰かが、かすれた声で呟いた。
命を削る寒さから、
ようやく「人間」を取り戻した声だった。
――――――――――
時間が経つにつれ、
小屋の空気が変わっていく。
空間全体を熱が満たし始めた頃、
別の変化が訪れた――
「……あれ、匂うぞ?」
誰かが呟く。
煤のにおい。
乾いた木、炭のにおい。
そして、人の匂い。
外には絶対に存在しないもの。
極寒の雪と風だけの世界では、
決して、感じ取ることのできない匂い。
人が居た場所、火を使った場所、
人が寒さを拒んだ痕跡。
それは生活の痕跡――
「……山の中なのにな……」
「……家みたいだ……」
兵の誰かが、かすれた声で笑った。
その笑みは、あまりにも弱々しく、
だが、あまりにも確かな「生の証」だった。
自然の中ではない。
ここは、人類の側だ。
文明の内側――
それを感じるだけで心が救われる。
――――――――――
入口の扉のほうから、
低く、よく通る声が響いた。
「暖は、確保できたか」
神成大尉だった。
軍帽に雪を残したまま、
ゆっくり、小屋の内部を見渡す。
疲労の色は濃い。
だが、その眼光だけは決して揺らいでいない。
「暖炉、使用可能であります」
俺の報告に、神成大尉は短く頷いた。
「よし」
そして、即座に命じた。
「各員に伝達」
「本小屋を中心に、雪濠を構築せよ」
一瞬の静寂。
それから、皆の思考が現実を思い出す。
今、この瞬間にも、小屋の外には、
猛吹雪に耐えながら待っている仲間たちがいることを。
「了解!」
その場の声が、力強く揃った。
――――――――――
神成大尉は、
小屋の外へ向けて指示を飛ばし続ける。
「交代で暖を取り、温まった者から外の作業に移れ!」
「外の者は、小屋の周囲に雪濠を掘るように!」
井上中尉も、
名簿を片手に、黙々と輪番を組んでいる。
日が沈む前に、小屋の周りに雪濠の防壁を設置する。
指示を受けた兵たちは、
迅速に動いていた。
そこにあるのは、
単なる命令への服従ではない。
この小屋が、俺たちの命綱になるという「理解」だった。
八甲田山の夜を越えるための、唯一の拠点。
吹雪の平沢。
その奥まった場所に位置する、
一軒の炭小屋に宿る火。
この火は、二百十名の命を繋ぐ、希望の灯りだ――。




