第三十二話 雪という絶壁
平沢の炭小屋へ向け、行軍開始――
命令は、瞬く間に、全隊へと伝達された。
――――――――――
だが、この日の雪中行軍は、
昨日までのそれとは、さらに違う顔を見せた。
それは、異様とも言えるような様相――
昨日までの積雪は『胸の高さ』だった。
兵たちは、雪の中を泳ぐようにして進まねばならなかった。
だが、今日の雪は、
もはや、昨日の比ではない。
深い場所では、人の背丈を優に超えていた。
胸ではない――
肩でもない――
頭上だ。
視界を完全に塞ぐ、白い壁。
ゆえに先頭は、
雪を掻き分けるのではなく――
『掘り進む』しかなかった。
シャベルが雪を噛み、
鈍い音を立てて「白壁」を崩していく。
その音だけが、
暴風雪の咆哮の合間に、
確かな「生の律動」として響いていた。
削る。
押し退ける。
踏み固める。
「交代だ!」
「前へ出ろ!」
荒い息。
白く爆ぜる吐息。
ゴーッ……という風の唸りの奥で、
兵たちの呼吸だけが確かに生を刻んでいた。
数メートル。
たった、それだけの距離を進むのにも、
昨日とは桁違いの時間を要した。
雪は、均一ではない。
風に削られた雪面は浅く、
吹き溜まりは容赦なく深い。
だが、総じて言えるのは――
この数日に降り積もった雪の量は、完全に、
人間の想像を超えていた。
幸い、史実とは違い、離脱者は一人も出ていない。
二百を超える人手。
維持された統率。
崩れない隊列。
それらが、かろうじてこの行軍を支えていた。
先頭が消耗すれば、
すぐに後ろの兵が前に出て、雪を掘る。
二百十名の部隊が、一つの巨大な生き物となり、
雪の壁を食い破っていた。
もし、これが史実のように――
指揮を失い、統制を崩していたなら――
この地獄の中で『個』による行動を強いられるなら――
想像するだけで息が詰まった……。
――――――――――
風は唸り、雪は叩きつける。
視界は、完全に白へと呑まれていた。
気温――
氷点下二十度前後。
だが、現場に立てば、数字は意味を失う。
(環境は、蓄積だ……)
積もり続けた雪。
冷え続けた空気。
凍え切った地面。
二十四日の『観測史上最低気温』よりは、
わずかに穏やかな天候。
だがそれは、今日の行軍が『楽になること』を意味しない。
――――――――――
ザクッ。
ザクッ。
ザクッ。
雪を削る音。
それに重なる――
ハァ……
ハァ……
ハァ……
獣のような、荒い呼吸。
雪を踏み締めても沈む。削っても、すぐ埋まる。
「前へ!」
「止まるな!」
怒号すら、
風に引き裂かれる。
声は届かず、姿も霞む。
ただ、すぐ前を歩く『仲間の背中』だけが頼りだった。
寒さは、
もはや感覚ではなかった。
侵食だ――
雪が脚の力を奪い、風が体温を奪い、白が精神を削り取っていく。
それでも――
列は、止まらない。
なぜなら、目指す先には『屋根』があるからだ。
風を遮る壁。
炭の熱。
閉ざされた空間。
それだけが、この雪の中を進む、唯一の理由だった。
――――――――――
「……あと少しだ」
祈りにも似た声。
一歩。
また一歩。
ザッ……
ザッ……
ザッ……
雪を踏み潰す重い音が、
弱々しく続く。
そして――。
「……見えたぞ!」
前方から、
喉を裂くような叫びが走った。
吹雪の幕の奥。
かすかに浮かぶ――
黒――
木造の影、直線、そして、人工物……。
「小屋だ……!」
極限まで沈みきっていた空気が、
一気に跳ね上がる。
兵たちの脚が、わずかに速まった。
第五連隊は、
平沢の炭小屋へ到達した。




