表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第四章 1902年1月25日(三日目)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/37

第三十話 運命を分かつ天秤

 正午。


 吹雪は止まない。


 だが、第二野営地は、かろうじて秩序を保っていた。


 拡張された「かまくら型」の雪濠――

 踏み固められた雪面――

 風を読むための簡易の目印――


 ここには、俺たちが死に物狂いで積み重ねた「準備」があった。



――――――――――


「戻りました」


 俺は、敬礼と共に告げる。

 神成文吉カンナリ ブンキチ大尉は、静かにこちらを見た。


 その隣には、井上徳蔵イノウエ トクゾウ中尉が控えている。


「報告を」


「はっ」


 荒れた呼吸を整える。



「第三索敵隊、午前十一時三十分頃――」


 一瞬だけ間を置く。


「木造の小屋を発見しました。

 場所は平沢のあたりだと、考えます……」


 正確な位置はわからない。

 だが、おおよその位置がつかめる。


 それはつまり、現在位置を、

 地図の上に固定できるということだ。


 その報告に、周囲の空気が変わった――。



「小屋、平沢……それは確かなのか?」


「正確な位置までは把握しておりませんが、

 その存在は、地元住人の話から確認されています」


 これは、嘘だ――。


 未来の史実として知っているだけ。

 地元住人への確認など、している暇はなかった。


 だが、今、彼らが求めているのは「理由」だ。


 疑いではない――。

 議論でもない――。


 今、この極寒の地獄の中、

 二百十名はすがれる「救いの糸」を求めている。


 だから俺は、

 未来の知識という不確かなものを、

 軍隊が納得する情報として「でっち上げた」のだ。



(だが、いいのか、それで……?)



 一瞬、胸の奥で、何かが軋む音がした。


 俺は、将校を――

 共に死線を越える仲間を騙すことになる。



 俺が「生きる」ため――

 彼らを「生かす」ため――


 それが、正しいと信じてはいるけれど――


 自分の「未来の記憶」という不確かなものに、

 俺は、二百十名の命運を賭けようとしているのだ。



 もし、史実と違っていたら――

 もし、俺の記憶そのものが間違っていたら――


 その時、二百十名が、俺の嘘ごと雪の下に消えることになる。



 * * *


 史実の八甲田山でも、

 それは、起きた。


 極限の寒さと、疲労に、正気を失った一人の兵が――


「帰り道がわかります!」


 そう、叫んだのだ。


 わらにもすがる思いで、

 その言葉に従い、幻の道を案内された部隊は、


 さらなる「死の彷徨さまよい」に引きずり込まれ、

 完全に、壊滅したのだ……。


 * * *



(……俺は、その『幻覚を見た狂人』と何が違う?)


(……俺が、未来を知っているというのは、本当なのか?)


 今、俺自身は、極寒で正気を失い――


 都合のいい妄想を、

 見ているだけなのではないか――


 不意によぎる疑惑が、鋭く胸を穿うがつ。



(……いや、それでも、だ……)


 皆を助けるために「嘘をつくこと」の罪悪感より、

 この、絶望の未来を知りながら「黙っていること」の方が恐ろしい。



 未来を『知っていること』が――


 すでに、それ自体が、俺の、

 逃れられない「カルマ」となっていた――



――――――――――


「……小屋の規模は?」


 神成大尉の眉が、わずかに寄る。


「炭小屋と思われます。

 食料の残置はありません、しかし――」


「……しかし?」


「炭を、確認しました」


 将校たちの視線が、一斉に揺れる。


 ここ数日の野営で、持ち込んだ燃料の消耗は激しい。


 ここで「炭」の補給ができることの意味は、

 この場の誰もが理解していた。


「暖の確保が可能、ですな……」


 井上中尉が、静かに言葉を添えた。

 感情を抑えた声。だが、その意味はとてつもなく重い。



「……収容人数は?」


「二百十名全員の収容は不可能です」


 誤解を生まないよう、確実な情報で伝える。


「ですが、温まった者は周囲に雪濠を掘り、順次交代する。

 そうした輪番ローテーションを組めば……」


 一拍。


「全員が生きて帰るための公算は、格段に高まるかと」



「炭の量次第ではありますが……」


 そこで、俺の提案に、

 井上中尉が被せるように続けてきた。


「……少なくとも、夜間の凍結による部隊の消耗は、劇的に軽減できますな」


 それはまさに、机上の空論ではない『現場からの声』だった。



 沈黙。

 吹雪の唸りだけが、世界を満たす。



「……距離は」


 神成大尉は、地図へ視線を落とした。


 俺が用意した簡略地図。


 擦り切れ、濡れ、それでも、

 今なお部隊の命綱として使われている紙。


「ここから、およそ一キロ強です」


「近いな……」


 だが、神成大尉の声に安堵はなかった。



「移動となれば、現在の雪濠の放棄処置、

 荷の再編成、行軍隊形の再構築が必要になります」


 井上中尉が口を開く。


「準備には、それなりの時間を要しますな」


「……そうか」


 神成大尉が小さく頷いた。



 俺は、一歩近付き、地図に指をさす。


「部隊を移動させるとなれば、

 最大の問題は、移動中の危険となります……」


 平時であれば、一キロなど走れば数分の距離だ。

 だが、ここは視界ゼロ、胸まで埋まる新雪の猛吹雪の中。


 一度動き出せば、数時間がかりの決死の行軍となる。


 この暴風雪の中、全軍を動かす巨大な危険。



 そして何より――


 ようやく築き上げた『安全な野営地』を、

 自ら「捨てる」という不確実性。



 留まるか、進むか。



 二百十名の命が――


 今、再び、指揮官の天秤の上に載せられた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ