第二十九話 埋もれた炭小屋
吹雪は、相変わらずだった。
弱まった――
などと呼べるものではない。
ただ、次に牙を剥くための時間を、
わずかに与えられているだけの静けさ。
風は唸り、雪は絶え間なく流れ続ける。
視界は白。
天地の境は曖昧。
進んでいるのか、同じ場所を踏みしめているのかさえ、
容易に錯覚する世界だった。
――――――――――
午前十一時過ぎ。
第三索敵隊の歩みは、
すでに重く、鈍くなっていた。
胸まで達する新雪。
足を持ち上げるたび、
雪の抵抗が容赦なく体力を削る。
一歩。
また一歩。
それだけの行為が、異様なほどの労力を要求する。
「……少尉殿」
前を歩く酒井徳次郎軍曹が、
低く声をかけてきた。
「どうした」
「この先、地形が変わります」
顔を上げる。
確かに――
雪面の表情が、わずかに違っていた。
起伏。
影。
吹き溜まり。
自然が作る、微細な違和感。
それを見逃さないのが、
現場を生き抜いてきた、この酒井軍曹だった。
「行ってみよう」
「了解」
さらに進む。
雪を掻き分け、
身体を押し込みながら前へ出る。
すると――
「……なにか、匂います」
酒井軍曹が、風を嗅ぐようにして呟いた。
「……たしかに」
俺も鼻を鳴らす。
この凍てつく雪の世界には、似つかわしくない。
どこか乾いた、古い炭のような……『文明の匂い』を感じる。
「……あ」
木村勇上等兵が
小さく声を漏らした。
「どうした、木村」
「少尉殿……あれ……」
木村が指差す先――
白の向こう。
吹き荒れる雪の幕の中に――
僅かな「線」があった。
人の手による造作。
自然の雪山には絶対にあり得ない、
意志を持った『直線』。
胸が大きく跳ねた。
「……建物、か?」
誰かが呟いた。
まだ確信はない。
だが――
全員の歩調が、
無意識のうちに速くなっていた。
――――――――――
雪に埋もれかけた、
それは、確かに「小屋」だった。
屋根の輪郭。
壁の稜線。
吹き付ける雪に、なかば飲まれながらも、
確かにそこに存在している。
「小屋だ……」
「本当に……建物があるぞ……!」
疲労の底に沈んでいた兵たちの声に、
はっきりと色が戻る。
なにもない無色の白の世界に、
ただ、人工物がある。
それだけで――
なぜ、こんなにも胸が軽くなるのか。
俺は雪を払いながら近づいた。
「人は住んでいないようです。
入口を掘り起こす必要がありますな……」
酒井軍曹はそう言うと、
力自慢の兵を伴い、率先して動き出す。
限られた数のスコップは、
最も効率よく扱える熟練者の手へ渡る。
それだけで、作業の速度が劇的に変わる。
一刻ほどの後――
入口が姿を現した。
だが、扉は厚い氷で固く凍りついていた。
「押せ!」
「はっ!」
数人がかりで力を込める。
ギシ……ッ!
鈍い音。
そして――
扉が、わずかに開いた。
――――――――――
内部は暗く、冷気に満ちていた。
だが――
確かに「囲われた空間」だった。
風が完全に遮断されている。
ただそれだけで、まるで別世界に足を踏み入れたように感じられた。
「……助かった」
誰かが、心の底から安堵の息を吐く。
正確には違う。
助かったわけではない。
だが――
そう錯覚してしまうほどの安心感が、この空間にはあった。
俺は、壁へ手を触れる。
木材。
粗末だが、
雪の重みに耐える確かな造り。
「平沢の炭小屋......」
自然と、口から、その名が零れた。
史実の記録で、何度も目にした名前。
この地獄の八甲田において、数少ない拠点となり得た場所。
「少尉殿?」
兵たちが、不思議そうに俺を見る。
彼らが、未来の史実など知るはずもない。
「ああ……間違いない……」
胸の奥を、確かな震えが駆け抜けた。
これは、地図の指標となる。
俺が描いた不完全な等高線地図の中で、
これでようやく、自分たちの『現在位置』が確定するのだ。
猛吹雪の中で自分がどこにいるか分かる。
それは、死の山において、
最強の武器を手にしたことを意味していた。
「直ちに状況を確認する!」
俺は声を張った。
「内部の安全確認! 収容可能人数の目測!
燃料・残置物の有無を調べろ!」
「「了解!」」
兵たちが力強く動き出す。
吹雪の音が、小屋の厚い壁の向こうで遠ざかっていく。
その音を聞きながら、
俺は、静かに息を吐いた。
八甲田山雪中行軍 三日目の昼。
まだ――
俺たちの路は、途切れていない。




